【旅行記】微魔女の微ミョーな旅
おわりに
微ミョーな旅を始めて、5年目を迎えた。
2021年は4月の誕生日を迎える前にミャンマーへ行こうと思っていたところ、折からのコロナウィルス騒ぎでお祝いさえまともにできない、人生で一番思い出深い誕生日を迎えた。
国際線のほぼ全便が止まり、鎖国状態になって久しいオーストラリア・メルボルンで、再び海外旅行に出られる日を心待ちにしながら、計画作り・体力作りに余念がない。
実は、この原稿を書くに当たって、ひとつだけ、隠していたことがある。辛気臭い話が嫌いなので黙っていただけのこと。ごめんなさい。
2016年、50歳になった年に海外旅行を再開したのは前述の通りで、そのきっかけとなったのは、中学からの(同級生としては幼稚園から)友達の死だった。
16年初めに中東旅行を計画し始めた頃、その数年前に癌の手術を受け、前年に転移が見つかった看護師の彼女は、化学療法も放射線治療も拒否して自宅で免疫療法を続けていた。その頃、慣れない電子ツールに四苦八苦するなかで、微魔女世代にも扱いが簡単なチャットツールを仲間の一人が持ち込んだことから、彼女を含む中学時代の5人グループで毎晩のようにおしゃべりをしていた。
私の一ヵ月間の日本帰国と中東旅行の予約も済んだところで、療養中の友達にその旨を伝えたのが4月下旬。彼女は病状が悪化して既に病院に入院していた。5月16日に羽田に着き、20日夜に旅行に出る前にお見舞いに行こうと、微魔女の一人と帰国翌日に病院を訪ねることにした。
病室の前まで来ると、件の友達がドアを開けて病室に入るところで、「なーんだ、元気そうじゃん」と声を掛けると、それは娘さんだった。元気な姿に安心したのも束の間、身体中に管を付けてベッドに横たわる友達の姿を見たとたん、天から地に突き落とされたようなあまりのショックで泣き出しそうになってしまった。しかし、そこは半世紀も生きてきた微魔女のプライドがあるので、何も見ていない何も感じていないふりをして、一緒に行った友達とひたすら喋り続けた。沈黙すると辛くて涙が溢れてきそうだったからだ。
「あーあ、私ももっともっといろんな国に行きたかったな」
若いころは、得意の三味線を持っていろいろな国へ行っていた彼女が弱々しい声でつぶやいた。
「治ったら行かれるって。旅行から戻ったら、また来るからさ。写真も送るよ。その間に退院しときなね」
「そうだね。待ってるよ。へへへ」
ほんの20分程度の間だったが、巡回の医者が来たので帰ることにした。
「じゃ、またね!」
病室を出ながら振り向くと、ベッドの上から見送る彼女と目が合った。やせ細ってすっかり大きくなった目は、悲しそうで、淋しそうだった。今までにどこでも見たことのない目だった。
娘さんから危篤の連絡が入ったのは翌日の昼過ぎで、私たち微魔女が駆け付けたときには、すでに息を引き取った後だった。私は翌日の夜便で出発することになっていたので、翌日地元で開かれたお通夜に参列し、家に帰って着替えをすると、そのまま羽田に向かった。
空港で、機内で一人になってみると、あらためて悲しみが込み上げくる。いつもは面倒でほとんど送ることもない写真も、彼女との約束を果たすために、グループチャットのタイムラインに逐一アップし続けた。そして旅行中、いろいろなことを考えた。
一年後、日本に帰国すると、実家に香典返しが届いていた。彼女の遺志で、カンボジアの女性の自立支援をするNPOに協力する形で、この香典返しを購入・寄付したとのメッセージと共に、きれいなピンク色の布袋が同封されていた。
以来、私の旅行には、このピンクの布袋をバックパックに結び付けて、必ず“連れて”行くようになった。
もっともっといろんな国に行きたかった、微魔女になる手前で亡くなってしまった彼女のためにも、微魔女はこれからも旅を続けていこうと思う。
(2021年6月)