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果たして私は本当に海外へ行くのか?

海外再移住を思い立ったのは、2019年頃だったろうか。降って湧いたような娘の不登校に戸惑い、「寄り添え」というばかりの学校や医者にもどかしさを感じてやり場のない怒りと不安の中で、私は再び海外生活へ思いをはせるようになった。

元々日本で子育てする気などなかった私の決断は早かった。

ところが、そんな中で日本でもコロナが流行し、あっという間に猛威を振るい始めた。
外出制限が出たり、海外渡航も規制された。

色んなことが頓挫した。

カナダは留学生の受入れを中止していなかったものの、気管支が弱く、何年か前に喘息を発症してしまった私は年齢的にも重症化のリスクが高く、その状況下で海外へ渡航するのは賢明ではないと判断し、1年延期して様子をみる決断をした。
そして、1年延期して準備を整えている間に日本での暮らしや娘との関係にも変化があり、色々考えた結果、親子留学は一旦白紙に戻し、仕切り直すことにした。

これから書くことは、その心境の変化と決断に至る経緯である。

当初の私は永住権狙いだった為、これまで細々と積み上げてきた広報/グラフィックデザイナーとしてのキャリアは一旦中断し、留学先では永住権が取りやすそうな職業について勉強することにしていた。

全く未知の世界、そして異国でのチャレンジに、最初はわくわくしていた。周りには、50代は現状維持が精いっぱい。チャレンジは趣味に留めておけと忠告する人もいて、根が負けず嫌いの私は俄然やる気を出していた。そう言ってくる人間を見返してやりたかった。

しかし、延期している間に学校側と何度か話す機会があり、話せば話す程「これじゃない…」感が増していき、悩むようになった。

そもそもどうしてもカナダがいいという理由がない。

住みやすいという話は耳にするものの、私や娘と相性がいいとは限らない。
そんな事情もよくわからない国に最初から永住権狙いで大金を払い、一切を投げ捨てて移住する覚悟は、冷静になって考えた時の私にはなかった。

日本へ帰国した私には、幸いなことに常に仕事があった。ストレスで体を壊し、しばらく休みたいと思って退職した時でも棚ぼた的に次の仕事が決まり、派遣から正社員になった後は転職する度に僅かながら収入も仕事の責任も増え、長年学生気分が抜けなかった私にも45を過ぎてやっと大人としての自覚や自信が身についてきた。
アメリカで結婚生活を送っていた頃、生活の為に嫌いな通訳の仕事を嫌々していた私にとって、好きなことで仕事ができているのも有難かった。特に帰国してから広報という仕事に出会い、デザインだけでなく、文章を書かせてもらえる機会が増えた。好きなことを全て活かせる天職を前に、それを捨てて今より収入が減るとわかっている技術を学ぶ為に渡航するのは、特に自分の年齢を考えた時、躊躇する気持ちが大きかった。

中学3年生になった娘は、大好きな吹奏楽部の顧問が担任になり、親友と同じクラスになれたことで、以前よりもきちんと学校へ行くようになった。
受験が視野に入ってくると、不登校の子でも衿を正すようになるという話を聞いた私は少しだけ娘の変化に期待した。

でも、それは長くは続かなかった。

いつの頃からか、娘はことある毎に過呼吸を起こして倒れ、保健室に運ばれるようになった。
突然38℃の熱を出したこともあった。
その度に学校から電話があり、私は仕事を抜けて娘を迎えに行った。
そして迎えに行くと、娘は何事もなかったかのようにケロリとしていた。
食欲もあり、脈も正常。測ると平熱に戻っている。 
この繰り返しだった。
無気力でやる気がない。家でもゴロゴロして、寝てばかりだった。
心療内科に通わせた時期もあったが、何も解決しなかった。

そんな娘を親として観察している内に、果たしてこのタイミングで海外へ連れ出すことが正解なのか?と考えるようになった。
環境を変えるのは、確かにひとつの手ではある。
教育水準が高いと言われるカナダなら、娘のような子でも学ぶことのひとつやふたつはあるに違いない。
しかし、外の世界に恐怖を覚え、どんどん内に籠っていく娘を見て、おそらく今「永住」を前提として海外へ連れ出したら、逆に大きな失敗に繋がるのではないかという不安が湧いて出るようになった。

また、中学を卒業する頃には口答えもするようになり、遅めの反抗期に入っているのを実感できた。
それまで叱ると下を向いてめそめそ泣いていた子はもうそこには居なかった。叱れば不貞腐れ、一人前に言い返す。涙などひとつも零さなくなっていた。
食事の時以外、部屋からは出てこない。夜遅くまで友達とボイスチャットでゲームをし、散らかった部屋で朝も遅くまで寝ているような生活を繰り返す。部屋から出てくる時に娘の手の中のスマホから流れるYouTubeのやかましいゲーム実況は、毎回私の頭痛の引き金になっていた。

そんな自堕落な娘と、バンクーバーのような住宅事情が深刻な地で、コンサルが言うように1BRのアパートを借りて顔を付き合わせる生活は、考えただけで息が詰まりそうだった。
おそらく、言葉も碌に通じない国で親子ふたりだけの生活を強いられたら、例えそれが短期間であったとしても、娘はフラストレーションから爆発しかねないだろう。今の私たちだったら、既に危ういその親子関係は完全に壊れてしまう可能性が高いような気がした。

そんなこんなで、私は親子留学を白紙に戻した。

コロナが収束したら…と言い続けてきたが、2022年7月現在、日本はコロナの第7派に入ったと言われている。
収束の兆しは見えず、とにかくワクチン接種を推進して「ウィズ・コロナ」精神の下、コロナ前に近い状態でとりあえず経済を回していこうとしている印象を受ける。

私個人の現況としては、長引くパンデミックからのストレスと腐った日本政府のお陰で漠然とした不安はあるものの、日本でそれなりに幸せに暮らしている。
コロナ不況で転職を強いられたものの、比較的自由が利く職場で自分の個室をあてがわれ、職場には週に3回だけ出社してフルタイムとして働いている。
今年はハローワークの給付金制度を利用し、それまで独学だったコーディングの勉強を根本からやり直すべく学校へ通い始め、忙しい毎日を送っている。
また、犬を欲しがる娘の気持を汲んで保護犬の預かりボランティアも始めた。もう二度と犬は飼わないと決めていた中で始めたボランティアで再び犬との生活する機会を得て、私の生活は大変ながら非常に潤っている。
大きな不満や不自由は何もない。
まぁまぁ幸せだと自信を持って言えるくらいの生活状況だ。

正直なところ、海外に永住したいと言う気持ちは日々薄らいでいる。
半年や1年くらいの海外生活に対する興味はまだあり、目下のところ一番興味があるのは、デンマークでのホイスコーレだ。
将来的には日本で建ててしまった家に基盤を置いた状態で、フルリモートで働きながら数ヶ月単位で海外生活を経験するのが目標になりつつある。

もちろん娘にも、再度海外生活を経験して欲しいと思っている。
ハーフの娘が経験する海外生活は、純日本人の私などとは明らかに違う筈である。
ホイスコーレなら一緒に行けるだろうし、この先娘にはワーホリのチャンスもある。
来年成人を迎える娘が希望するなら、オハイオにいる父方の家族に会いに行かせることも考えよう。
たとえ娘が一生日本に根を張って暮らすとしても、他の国をその目で見て肌で感じて比べた上で「やっぱり日本がいい」と言って欲しい。

私はこの先も、自身のスキル向上を目指すと共に、どういう形であれ娘が外の広い世界に出ていけるよう促していくことに変わりはないと思っている、たとえそれがどこの国であっても。