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なぜ50にして海外移住なのか?

”それ”は私の中で以前から静かに燻っていた。

帰国して丸10年ー。

もう二度と海外へ出ることはないだろうと思っていた。

出たくても出られない事情もあったし、離婚した私の心は海外生活に疲れ果てていた。辛い結婚生活で適応障害を発症し、完全に打たれ弱くすべてのことに対して臆病になっていた。

別れた夫やその家族、親せき、弁護士に至るまで全員が敵だった。周りが高みの見物を決め込む中、私はたったひとりで戦った。

そんな時、日本は優しく私を包んでくれた。

多くの人が助けてくれた。みな親切で、傷ついた私を癒してくれた。

大丈夫、ここでも娘と2人でやっていける。

ずっとそう思って暮らしてきた。

40になる年に帰国し、一度見切りをつけた国で人生の立て直しをすることに皮肉を感じつつ、手っ取り早く派遣で仕事を見つけ、コミュニティに溶け込むために努力を重ねた。

貯金や投資も始めて、来るべき老後についても準備を始めた。

この10年、私はシングルマザーとなり、がむしゃらに突っ走ってきた。

そして、ふと気付くと50手前まできていた。

日々の生活で精一杯の毎日。

ひたすら前だけを見て慎ましやかに暮らしてきた。

幸せだとか不幸だとか、そんなことは考えたこともなかった。幸い、お金に困っていたわけではないし、贅沢をしなかっただけであとは普通に生活ができていた。それ以上は何も望んでいなかった。

しかし、派遣法が改正され、雇用が不安定になった。新たに仕事を見つけても時給は下がる一方。職場はどこも上下関係が厳しく、パワハラが横行していた。帰国当初、まだ高スキルが要求され、即戦力とされていた派遣の仕事は次第に雑務要員としての役割が大半を占め、やる気など吹っ飛んだ。専門26業種も廃止され、ひとつの企業で一律3年までしか働けないのも私の頭を悩ませた。

娘の中学進学を機に正社員転職を果たしたものの、安定とされていた正社員も蓋を開けてみれば、手取りの給料はほんの僅か。退職金もボーナスも手当は一切なし。見込み残業代込みという名目で延々と働かされる地獄のような日々が待っていた。

その頃から、時々言いようのない虚しさを感じるようになった。

私が帰宅する時間には、娘は既に寝てしまっていることが大半だった。一緒に夕飯も食べられない。その日娘がどんな風に過ごしたのか、学校はどうだったのか、何も知ることがなく1日が終わる。

いくら正社員とはいえ、僅かな収入しか得られないのでは貯金どころか生活すら危うい。その上、娘との時間まで犠牲になっている。新たに転職活動を続けても、どこも条件は大して変わらなかった。

働くために生きている。

いつしかそれに嫌気が差した。

日本の政治に無頓着だった私も、生活の質が下がり続けていることを実感するようになり、日々流れるニュースを見て、日本は頑張っても決して報われることのない国になってしまったと落胆した。

すると、また次第に海外へ出たいという気持ちが頭をもたげてきた。

元々、老後は少ない年金でも暮らせるアジアのどこかに移住できないかと考えることもあった為、再び海外移住に思考転換するまでそう時間は掛からなかった。

そして、私の背中を大きく押す、ひとつの決定的な出来事が起きた。

娘の不登校。

それまで1日も休まず元気に学校へ通っていた娘が、中2の夏休み明け、急に体調不良を訴えるようになった。

吐き気から始まった症状はあっという間にエスカレートし、学校へ行かせても授業中に高熱や過呼吸で倒れ、お迎え要請の電話が掛かってくる。病院で診察を受けても異常はなく、小児科の医者からは思春期特有の症状だから無理に学校へは行かせないようにと忠告される。

一時的なものと励まされ、私自身、中学時代に不登校の時期があった為、娘の意思を尊重し、無理に学校へは行かせなかった。しかし、それも日が経つにつれ、心配が不安へと変わる。丸1日休むことはなかったものの、学校へ行っても保健室で休んでいたり、早退して帰ってくる娘を見て、一体いつまでこの状態が続くのか、見つからない答えに苛々するようになった。

そしてある日、娘の口からいじめがあったことを知らされた。

同じクラスの男子生徒数人が、女子をひとりずつターゲットに選び、からかったり揚げ足を取ったりするのだという。

直ぐに学校へ連絡すると、担任は娘のいじめは把握してなかったものの、クラス内で問題があることは承知していた。学年主任も交え、四者面談で話し合ったが、学校側の対応に不満を覚えた。

その後も担任や学年主任から何度か報告はあったものの、いじめの当事者にどういう指導や処罰があったのかは、訊いても煮え切らない返事が返ってくるばかり。「中学生だから…」「まだ子供だから…」と加害者の人権ばかりを擁護する態度に腹が立った。親が必死に訴えなければ学校は動いてくれなかったし、動いても最善を尽くしているようには見えなかった。

元々勉強も部活も中途半端な公立学校だ。塾へ通わせたり、習い事をさせたり、親が自覚に欠ける子供を励まして頑張らなければ良い高校へは進学できない。学校へ行けない娘と下がっていく成績を見て、不安が頂点に達する。学校への不信感も募り、自分の辛かった学生時代を思い出す。

どうすればいいんだろう…。

答えが出ないままモヤモヤを抱えていた私の目に飛び込んできたのが、カナダ留学のウェブ広告だった。それまでカナダへ行こう等とは一度も考えたことはなかった。それなのに、その広告を見て私の中で何かが動いた。それまで燻っていただけの煙から一気に炎が出るような感覚だった。

調べていくと、隣の国でありながらカナダとアメリカは移民法において全く異なる姿勢を取っていた。永住が狭き門のアメリカと違い、カナダは多くの外国人に門戸を開いていた。学歴もスキルも様々な人たちが、それぞれに合った就労ビザを取得し、自分にチャレンジしながらカナダの経済を支えている姿がそこにはあった。アメリカで苦戦し、やり遂げられずに敗退した悔しさを思い出し、再挑戦したいと思い始めた。また、子供の教育面においてもカナダは世界トップレベルだという。少しでも娘に良い教育を与えてやりたい。日本のように勉強や校則に囚われず、大らかな環境の中でのびのびと生活し、バランスの取れた人になって欲しい。カナダなら、それができそうな気がした。留学生でも一定条件を満たせば子供の学費はカナダ人同様無料になるというのも私の気持ちを後押しした。

こうして、私の気持ちは再び海外へと傾いていった。