ケルト音楽を踊る(後) ベルギーの小さな女子大生との出会いと別れ
「Shall we dance?」と言われたかは覚えていないのだが、彼女が1人でうろうろしている僕を見て声をかけてきたのは確かだ。カミーラはサンドラと、カタリーナはニスィと、まるで僕とペアを組むことだけは避けるようにテキパキとペアを確保していった。彼女も相手を探している状況を遠目から見て知っていたので、自分からそうさせるように仕向けたというのもある。しかし余り物であったにしろ僕を選んでくれたのは嬉しかった。彼女も他の白人同様薄汚い日本人男性なんかを相手にしないと言ってもおかしくないのだから。
二人一組のペアが縦に何重にも並び、お互いの腕で花道を作ってペアを通させるという簡単な遊戯だった。彼女と手を繋いで見つめ合うとステージからの音楽や周りの人々はどこか違う世界に飛んで行ってしまい僕らだけが取り残された気がした。身長差が20センチほどあるため彼女は口元に笑みを浮かべながら上目遣いで僕を見つめた。その時の僕はどんな醜い顔をしていただろう?彼女は短い袖の短いTシャツを着ていたので、手を上げた時に彼女の脇から酸っぱい汗の匂いが漂ってきた。最初はそれが彼女からとは思わなかった。それは彼女の可愛らしい顔からは少々予測できないくらいの強烈な匂いだった。自分の脇も確認してみたが僕は緑のユニクロの長袖Tシャツを着ていたので服の洗剤の匂い以外はわからなかった。この汗の匂いが横で踊っている人気付かれなければいい、と僕は思った。しかし海外の女性はもしかするとこれくらいは普通なのかもしれない。彼らは食生活がそもそも違うため脇汗を構成する成分ももちろん違うはずだ。それに僕も欧米人として生まれ変われるなら脇が臭くても良い。そう思うとすぐには消えてくれない彼女の脇の匂いも気にしなくなってきた。ただ周りの人にこの匂いの発生源が僕だと勘違いして欲しくはなかったが。
音楽が止まり僕らは久しぶりに手を離した。彼女の手は小さく、湿っていた。
「一緒に踊ってくれてありがとう」
「ええ、こちらこそ。楽しかったわ」
「君は学生?」
「うん。アバディーン大学の〇〇学部よ(学部名を言ったはずだが忘れた)。あなたは?」
「語学学校に通ってるんだ。彼らは同じクラスメイトで、今日はその学校のイベントで来たんだ」と言ってカタリーナやカミーラを指差した。女性ばかりだが何もやましいことはないと言いたかった。
「君は誰か友人と来てるの?」
「いいえ、ホームステイ先のおじいちゃんとおばあちゃんの二人と来てるの。だからそれほど長くはここにいられないわ」と言ってそのホストの二人を遠目から指差した。
「そうなんだ。ホームステイは素敵だね」
「良い人たちよ。あなたはどこから来たの?」
「日本だよ。そもそも日本って知ってるかな」
「日本ね。もちろん知ってるわ。自然と色が有名よね」
「君は?」
「ベルジアムよ」
「・・・ベル・・?」
「ベルジアム。イギリスのすぐそこの国よ」
彼女の言った単語に聞き覚えが全くないのだ。僕はヨーロッパの地理を見るのが好きなのでイギリスに近いそんな国を知らないわけがないのだが。
「おかしいな、、なんで聞いたことないんだろう?絶対知ってるはずなんだ」
「ここよ、ベルジアム」
彼女は携帯を取り出し地図を見せてくれた。そこには僕がよく知っているベルギーが当然写っていた。
「ああ、ベルギーか。もちろん知ってるよ。ただそう発音することを知らなかったんだ。チョコレートが有名だね?
「ええ。ベルギーのチョコは最高だわ」
彼女のホストファミリーが近づいてきた。彼ら3人は何かを話し始めた。途中で彼女が僕を指差し、ファミリーも僕の方を見てにっこり笑った。
「もう帰らなきゃいけないわ」
「そうなんだね。今日はありがとう」
「私こそ。じゃあね」
「またね」
彼女は僕に手を振り一瞬にしてドアの向こうへ消えてしまった。僕はしばらくそのホール入り口を見つめていた。どこかの知らない街に一人ポツンと取り残された気がした。心にぽっかり穴があき、その虚しさを誰も慰めてはくれないという事実が一層僕を突き放した。