あの人が着替えを持ってやって来た日
読者のみなさんからすると、ここ最近の流れって明らかに青年に不利だと思いません?
でも、そうじゃなかったかもしれないんです。
一見すると、浜田君に心が傾きかけているように思えるかもしれませんが、実はこの時の彼女の心は揺れに揺れていて、どちらに行ってもおかしくないくらい紙一重だったのです。
青年の計算は、こうでした。
「このつらい日々も3月いっぱいで終わり。『ボランティアの集い』を成功させれば、あの人の見る目も変わり、4月からはふたりで会って楽しい時間が過ごせる」と。
でも、現実にはあの人と浜田君はこっそりふたりで会っているのです。命を削りながら一生懸命にがんばってる自分の方がつらい思いをしているだなんて、なんだか不公平な感じがしました。
これって、妻のために懸命に働いている夫がどんどん追い詰められていって、浮気に走ってる間男の方が得をしている構図に似ていません?
なので、青年も段々と我慢ができなくなってきます。かといって、面と向かって文句を言うのもはばかられるので、ブツブツ独り言を言うようになります。
それに感化されて、あの人の方も独り言で文句を言うようになってきました(彼女は、自分自身でその状態に気づいていないみたいでしたけど…)
そして、ついにあの人の方から「ふたりで会おう!」と言い出してきたのです。
最初、青年はその申し出を断りました。なぜなら、3月いっぱいは「世界を変える戦い」に時間もエネルギーも投じて、4月から頭を切り替えて彼女に尽くすつもりでいたからです。
でも、結局、らちが明かず事態は平行線のままだったので、ふたりの予定がちょうど空いている夜に会うことになりました。
約束の夜。
新宿駅南口。待ち合わせの場所に到着すると、彼女はバッチリおしゃれをしてきています。真っ赤な口紅なんかも濃い目に塗りたくっていました。
いつも薄いお化粧なのに、水商売の女性みたいに口紅を塗っているのを見て、青年はちょっとおかしくなってしまい、笑ってしまいました。
「なにそれw口紅濃すぎないw」みたいな感じで。
すると、彼女は恥ずかしくなったのか、唇を手の甲でゴシゴシとこすり、口紅を落としました。
「そっちの方が似合ってるよ」と青年は答えます。
ふと気づくと、彼女は床の上にボストンバッグを置いています。「ディケンズの分解メス」が自動発動し、瞬時に事態を察しました。
「この子、家に帰る気がないんだ!今夜は外で泊まる気だ!」
きっと、ボストンバッグの中には今夜の着替えが入っているのでしょう。家族とケンカして家を飛び出してきたに決まってます!
そりゃ、そうです。30日以上も毎日のように娘がどこだかわからないとこに、朝から晩まで出かけているのです。心配に思わない親なんているはずがありません!
青年のその勘は当たっていました。次にあの人が口を開いた時、こういうセリフが飛び出してきたからです。
「お母さんが言うの。『あなたおかしくなっちゃったから、1度お父さんのとこに行きなさい!』って」
彼女の父親は単身赴任で、青年の故郷の近くに住んでいました。ここから1000㎞も離れた場所です。そこに泊りがけで行って心を落ち着けろというのです。しごく当然の対処に思われました。
青年は迷います。
「このままこの子を連れて帰れば、どうなるかはわかってる。1つ屋根の下で若い男女が一緒に寝泊まりすれば、当然…」
一瞬の内に「ディケンズの分解メス」は未来を見せてくれました。
今夜、家に帰らなければ、彼女は今後ずっとうちで暮らし続けるだろう。1度本格的に荷物を取りに帰り、その後はあの部屋で一緒に暮らし、大学もそこから通う。
でも、それは長続きしない。もって2ヶ月といったところ。
「この人との関係をそんな短期間で終わらせるわけにはいかない!絶対に!絶対に!だって、この人は『世界で一番大切な人』なんだもの!」
あるいは…
あるいは、あの日、あの人を家に連れ帰れば、恋人になれていたかもしれません。場合によっては子供ができていたかもしれないし、結婚していたかも。
「ディケンズの分解メス」が見せた未来は、あくまで可能性の1つに過ぎません。しかも、21歳の未熟な状態での能力。経験も知識も劣っていた時の未完成な能力に過ぎませんでした。
なので、「絶対の未来」ではなかったんです。
いいえ、絶対に確実な未来なんて、どんな能力者にも見通すことなどできはしません。100%確実な未来などありはしないのです。ただ「高確率でそうなる」ことはあるでしょうし、未来を予見した瞬間、現実がそちらに近づいていくことにもなるでしょう。
ただ、それだけのコトなのです。
みなさん、どう思います?
この時の青年の判断は正しかったのでしょうか?それとも間違ってる?
人として正しいのはどっち?恋人として結ばれた方がよかった?そうしなくてよかった?
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