目の前の幸せを追うのは刹那的な生き方
ここから先は、あんまりたいした話はないんです。いや、ないわけじゃないんですけど、なんだか世界が色あせてしまって…
なので、駆け足で行きましょう。
「あの人」との関係が疎遠になって、確かに世界は広がりました。より多くの情報に触れ、様々な考え方や生き方を吸収していきます。
代わりに1つ1つの出来事や経験の価値が薄れていったようにも感じます。何かとてつもなく大切なモノを失い、心にポッカリと穴があいてしまったようでした。
心の穴を埋めるように、目の前の楽しみに没頭し、誘われるままいろいろな場所に出かけていきました。
そういう生き方って「その時は楽しい」んです。でも、あまり後には残りません。目の前の幸せを追うってのは、非常に刹那的な生き方なんですよ。
小説の方も、まともに書けはしませんでした。あいかわらず断片的なアイデアをメモするばかり。使われもしない膨大な「アイデアのカケラたち」だけが山のように溜まっていきます。まるでゴミ山をうずたかく積み上げていくかのごとく。
仕方がないので、次から次へと新しいコトへと手を出していきます。「変化こそが唯一の生き残る手段」だと信じて。
絵を描いてみたり、マンガを描いてみたり、作曲の真似事をしてみたり、ひたすら外国語の勉強をしていた時期もあります。それも1ヶ国語だけではなく「フランス語」「イタリア語」「ドイツ語」「中国語」「ロシア語」など同時に何ヶ国語も。
どれも、それなりには上手くなりました。短期間で基礎の基礎だけ学ぶのは得意なんです。でも、それだけでした。一流の領域に到達するわけでもなく、それでお金が稼げるわけでもなく、中途半端な能力がいくつも身についただけに過ぎません。
「もしかしたら、この生き方は間違っていたのかも知れないな…」と後悔するようになりました。
「たとえ、かなわぬ恋であれ、1人の人を追いかけ続けていた方がよかったのではないだろうか?」「その方が物語としても美しかったのではないだろうか?」「あの人が望むなら、その望みを叶えてあげればよかった。普通に当たり前に働いてお金を稼いできて、あたりまえの幸せを享受する。そういう生き方を…」
そんな風な後悔です。
けれども、そっちの道を歩んでいたら、別の後悔をしていたでしょう。
「もっと別の生き方があったのではないだろうか?こんな普通で当たり前の人生ではなく、もっと自由で特殊な生き方が…」と。
別の未来を考えると、何がなんだかよくわからなくなってきてきました。
「じゃあ、一体、どうすればよかったのだろうか?何が正解で、何が不正解?」
結局、欲張り過ぎだっただけなのかも知れません。何もかも全部は無理だし、全ての願いを同時にかなえることなんでできはしないのです。
何かを得れば、何かを失う。世の中、そういう風にできているんです。
あえて言うならば、そういう物語を書くしかない。「全ての未来を想像し、徹底的に精査して、結局全てを選ぶことはできやしない」という物語を…
noteの世界で輝いている才能ある人たちや一生懸命努力している人たちに再分配します。