かつて世界を滅ぼそうとした者、いまだに世界を変えようと戦い続ける
21歳の青年が生きていた時代からすれば、遠い遠い未来のお話です。
ひとりの男が真っ黒なノートパソコンを前に、ほおづえをついてボ~ッと考えごとをしています。
季節は夏。うだるような暑さ。明らかに外よりも気温の高い部屋。部屋には冷房1つなく、1台の扇風機がカタカタと音を立てながら回っているだけ。
その年、世界を凶悪なウイルスが襲いました。最初は「たいしたことないだろう」と高をくくっていた人々も、その脅威に気づき始めます。
大勢がウイルスに感染し、後遺症が残ったり、亡くなったりしました。それでも、日本はまだ安全でした。だから、みんな油断していたんです。
「皮肉な話だな。かつて本気で世界を滅ぼそうとした人間が、今度は全力で世界を救おうとし、1人でも犠牲者を減らそうと懸命に努力しているだなんて…」
男は、独り言をつぶやきました。
「今は夏だからいい。でも、冬になれば気温も下がり、空気も乾燥し、感染は拡大するだろう。風邪やインフルエンザとの違いもわからなくなり、余計にやっかいな事態になる。医療機関も混乱するだろう」
そうして、1つの警告文を書きました。
※この時の記事
でも、多くの人たちは理解できませんでした。
国は「安く旅行ができる政策」を実行し、大勢がその流れに乗って人生を楽しみました。そうして、無自覚に感染を拡大していったのです。
このウイルスの怖ろしいところは、「自覚症状のない人たちが、無意識にウイルスをばら撒いていく点」です。
きっと、「絶対に安全だ!」と主張している人たちは、自分の愛する人が病気になったり亡くなったりするまで気がつかないでしょう。
「そうなる前に、どうにかして防がないと…」
男は、遠い昔を思い出しました。本気で世界を滅ぼそうと考えていた頃を。自らが持つ特殊能力を使って、ありとあらゆる可能性を検討したあの頃を…
この数十年の間、様々な犯罪者が生まれては消え、生まれては消えていきました。
「オウム真理教の麻原彰晃」「神戸連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗」「バスハイジャックをしたネオ麦茶」「秋葉原通り魔事件」
似たような事件は、何度も起きました。世界を見渡せば、数限りなく凶悪犯罪は起こっています。
でも、どれ1つとして彼の心を動かすモノはありませんでした。
「バカバカしい。どれも子供の遊び。児戯に等しい…」
本気で世界を滅ぼそうと考えた者が、なぜそれを実行しなかったのか?
「いけないコトだと考えたから?」「人の倫理に反するから?」「法律で禁じられているから?」
どれも違います。
「あまりにもチャチ過ぎたから」です。どれもこれもスケールの小さな犯罪ばかり。「世界で一番大切な人を失った代償」は、その程度で補えるわけありません。最低でも、数千万から数億。可能ならば、数十億人を巻き込む大犯罪をやってのけなければ!
自らの強い強い思いに応えられるだけの犯罪を犯すだけの手段を手に入れることができなかった。それが、彼を犯罪者に仕立て上げなかった理由。その思想は、あまりにもスケールが大き過ぎたのです。
ただ1度だけ、例外がありました。ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだ時。あの時だけは心が揺らぎました。
「このくらい世界を震撼させることができれば、この命を捨てても割に合うかもしれない…」
そう考えました。でも、誰かが1度やった手をマネする気にもなりません。
結局、彼はそれ以上の犯罪を実行するだけの手段を手に入れることはできず、徐々に興味も薄れていき、やがてバカバカしくなって世界を滅ぼすのはやめてしまいました。
ただ…
彼が考えたコトの1つに「世界中に凶悪なウイルスをまき散らし、全人類を滅ぼす」というものがありました。遺伝子操作され人為的に生み出された、どのようなワクチンも通用しない無敵のウイルス!
もしも、そのようなモノを開発することができれば、あの頃の青年の願いをかなえることができたでしょう。
「まさかね…」と、男はポツリとつぶやきます。
もしも、自分と同じようなコトを考え、それを実行するだけの資金と人員と設備を備えた組織が誕生していたとしたら?
幼い頃より無理やり受験戦争に参加させられたり、本物の戦争に駆り出されたり、人生を賭けた恋に破れたりした者が自暴自棄になって、史上最強のウイルスを誕生させ、ばら撒いたとしたら?
中国は日本よりも広い。単純計算で10倍の人間がいる。かつての自分と同じような「少年」や「青年」を生み出す確率も10倍。「マスター・オブ・ザ・ゲーム」のような短期間で物事を取得する能力をもってして、遺伝子解析を行ったとしたら?
「中国でその条件を満たした者が存在しなかったと、誰が断言できるだろううか?まして、世界は広い。日本の70倍近くの人間が存在している。『世界を滅ぼしたくなる者』も数知れない。潜在的にその思いと能力を兼ね備えた者が何百人も何千人も潜伏しているだろう」
その内のひとりが、条件を満たしてしまったとしたら?思う存分学べる環境と研究施設を手に入れてしまったとしたら?
理論上、誕生する!世界最悪のウイルスは!
考えてみれば、不自然な点が1つありました。
ヨーロッパやアメリカなど白人に対しては猛威を振るっているウイルスが、なぜ中国や韓国、東南アジアの人々にはそこまで威力がないのでしょうか?
男は考えます。
「もしも、自分が似たようなウイルスを開発するなら。最悪の場合を想定し、自らの遺伝子にはあまり効果を及ぼさないようにプログロムを組むのではないだろうか?」
そう考えると、腑に落ちます。仮に中国で今回のウイルスを人為的に開発したとして、誤って研究施設外に漏れた場合を想定し、自分たちの体には被害が少ないように作っておいたのでは?
日本人は、たまたま近い遺伝子を持っていたので、運よく恩恵を受けただけなのでは?
「さすがに妄想が過ぎるか…」と、男は呟き、フッとおかしそうに笑いました。
「…とはいえ、このまま放置しておくわけにもいかない。この命だって、いつ尽きるとも限らない」
彼が住んでいた地域は比較的安全な場所にありましたが、それでもウイルス患者はついに隣町でも発生してしまいました。
「時間がないかもしれない。最悪の最悪を想定し、この命…残りの寿命が長くないとすれば、今の内にやっておかないといけないコトがある」
それから男は意識を集中させると、自らの持つ特殊能力を発動させました。
「『マスター・オブ・ザ・ゲーム!』そして『ディケンズの分解メス!』」
2つの特殊能力の同時発動です!
『ディケンズの分解メス』
手持ちの情報や周りの状況・環境を分析解析し、考え得る限り最善の手段を導き出す。同時に、そこから想定される未来を予測する。
ディケンズとは、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズ。彼が生きた産業革命の時代、社会情勢やそこに生きる者たちの生活を学び、各家庭を徹底的に分析・解析して回った。さらに、そこから人々の心を打つ数多くの小説を残した。代表作は「クリスマス・キャロル」
イメージを直視することのできる者なら、男の背後に「スーツ姿のイギリス紳士が手術用のメスを両手に持った姿」が見えたことでしょう。
それは21歳のあの頃より、遥かに進化した能力。精度も威力もケタ違い!
「ディケンズの分解メス」と「マスター・オブ・ザ・ゲーム」の2つの特殊能力は、遠い昔の物語を思い出させてくれました。
かつて、心の底から信じてくれた人。「一緒に世界を変えよう!」と約束した人。出会う前から信じていた「運命の人」
「理想の女性」を生み出した中学・高校時代。それ以前に小学校の受験戦争に巻き込まれ、心を失った時のコト。どうしても行きたかったあの遊園地。
「残さないと!この物語だけは!墓場まで持っていくつもりだったけど、それはダメ!誰かひとりの人生でもいい。たったひとりの人生でも変えられるなら。救えるなら…その為にもこの物語を残しておこう!」
この時、彼はそう決心したのです。
あるいは…
あるいは、彼はたったひとりで戦い続けていたのかもしれません。遠い昔に「一緒に世界を変えよう!」と誓った人。
その人は去っていってしまいました。けれども、彼はひとり残り。孤独に戦い続けていたのかも。「世界を変えるため」に!
いまだにひとりで世界を変え続けているのかもしれません…