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Father

父親の誕生日を過ぎた

亡くなって30年近いかな
ザックリ!と どんな父親だったか 綴っておこう

幼少期は 一人息子だから 余程 可愛いかっただろう
数枚の写真が物語っている
僕が言葉を話せる位には ほとんど家には
居なかった……
何をしている人なのか
仕事も気にならないし
存在すら 父親と言う概念は無かったかも

人それぞれ 色々な家庭がある訳で
ウチは父親不在が多かったし
幼稚園の頃から鍵っ子だったし

子供の頃は 比較的 嫌いな父親だった
何しろ酔っ払って帰宅する事が多かったのと
強面のオッサン連中も一緒だったし
1度 夜更けに 茶をぶっ掛けられ勉強するか
寝ろ!と言われたのはトラウマだな……

小学校2年生の時 女子と口論になり
僕は 相手の女子を泣かせた
言ってはイケナイ事だと 知らなかった
たった1言  
すぐさま父親の会社へ学校から電話が
行ったのだろう  いや、正確には母親の
会社に だと思う

真剣に怒られた事は 生涯この一度きり
相手の女子は 児童養護施設から通っていた子
施設と言う場所は 僕にはまだ 刑務所みたいな
嫌な場所って 位にしか思っていなかった
この事を 嫌と言う程 怒られ 児童養護施設を
解るように説明してくれた父

父親の会社にも 兄弟で 養護施設を出て
悪さしていた2人が働いていた
恐らく警察署から 連絡を受けて
身元引受人になり 雇ったのだろう
後に 僕には本当の兄の様な2人で
家庭を持ち 真面目に働いて バイトで
雇って貰った事が ……

まぁ、小学校低学年には離婚して
より家には寄り付かなくなった父
久々に会うと 懐かしい友達感覚だったかな
僕は変わらずの鍵っ子 で良く面倒を
見てくれていた 姉の様な人が 母に頼まれ
やって来ては 2人で騒いでいた事を
今も良く覚えている が!
母親が亡くなった時に 周りから
聞かされたのは その姉の様な人は
父親の愛人で 母親が面倒を見ていた事
……母凄い……としか言いようが……

その母親が亡くなる前 入院中に
フラリやって来た父
諸々の手続きや 夜中に屋台で
おでん を食べた 親子で
数日で母の呼吸も止まり
顔に白い布が……
泣けなかった 現実を
受け入れられずに

葬儀等 全て父親 が やってくれて
僕は喪主として18で大勢の前で
挨拶を させられ 約2千人が集まり
葬儀場が 驚き 記念に 写真を
飾っても良いですか?……今 それ 必要?

葬儀も終わり 一緒に蟹を食いに行ったが
支払いは 香典から 払っておけよ!……
アンタの奢りじゃ無いのね ……
翌日には 東京へ戻って行った

直ぐに父親方の爺様が亡くなり
東京へ呼ばれたが YMCAホテルに
……夜中まで英語で騒ぐ 喧しいHOTEL
翌日 御茶ノ水駅で待ち合わせ
父方の実家へ
ズラリと並んだ花輪
高倉健  千葉真一  松方弘樹  菅原文太 ets
元々 演劇で恋に落ちた父親と母親
母親は女優として モデルとして
まぁ、駆け落ちして 引退したが
父親は 中半 違う道へと
それでも交友関係は 半端では無く
広かった

やがて 僕が上京して来て
最初に電話した場所は父親の所
先ず住む場所が無い  だから電話したら
母親の亡くなる前から一緒に住んでいる
女性が居るから 友達の知り合いの
結局 誰だよ!な 東十条のアパートへ

爺様の葬儀の後 父親と一緒に暮らして
いる女性に会った事があるが 僕の2つ上だったかな
東十条で1ヶ月 過ごし 父親に呼ばれ
仕事の手伝いしながら アレ?あの女性は……
と聴いたら 親が そんな年配じゃ駄目だ!
帰郷しなさい!と言われ 父に相談したら
親御さんの言う事も ご最もだ 帰りな……
それ以来 ソファーが僕の寝床となり

約1年 一緒に暮らし 行動も良くしたが
何しろ人に優しい!
関東では有名な喧嘩師……悪い友達も沢山いる
が、著名な人も居る  何より優しく 面白く
強く カッコイイから モテる……男女から!
幼い頃 大嫌いだった 父親は
最高で 世界一尊敬する男だったと気付いた
まだ、父親が亡くなった年齢には
なって無いが アナタを 越えられない
優しさも 強さも 面白さも
ただ、カッコ良さだけ なら……
すまん父よ見た目も若かった両親
アナタの兄さんは 普通に老けていた
つまり このDNAの違いは僕に味方した

まぁ、もう10年か20年か 僕も高齢者だ
今はずっと禁酒だけど また一緒に呑もうよ
待っていて くれるなら なオヤジよ
後  母さんに謝ったか? 散々 迷惑を掛けて
愛人まで面倒見させて ……有り得ないわ!

バカな息子より
何時も 感謝しております

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