見出し画像

「らくだの会」(柳家三三独演会)と『真田小僧』の思い出

昨日2024年8月3日(土)、友人と連れ立って神楽坂の善国寺に柳家三三の噺を聴きに行く。「らくだの会」という独演会で前座1席、三三の噺が2席。前座は『松竹梅』でお茶を濁し、三三は前半『真田小僧』、中入りをはさんで最後は『らくだ』を演じたが、どちらも相変わらず見応えのある噺っぷりだった。

『真田小僧』はちょっとずる賢いところがある子どもが小遣い欲しさに父親に、留守の時に母親が見知らぬ男を家に招き入れた話を上手にやって、途中途中で追加の小遣いまでまんまとせしめるという噺だ。何度も聴いた噺だが、この下りで「待てよ」と思った。子どもが噺を途中までして、「続きが聴きたかったらもう2銭おくれよ」、「ここから先はもう3銭、2銭はここまで」のこの展開はオンラインゲームのアイテム課金やウェブトゥーンの続きのストーリーを読ませる課金の仕組みの原型なのではと思った。大韓民国に落語好きがそんなにいる訳もないだろうからまさかそんなこともあるまいが…

『真田小僧』は長い噺で、大抵は小遣いをせしめた子どもが遊びに出たのと入れ違いで母親が戻った後の父親と母親、つまり夫婦のやり取りあたりまでで噺を終える演者がほとんどなのだが、この日の三三は最後までやった。落語会の入り口のポスターに「サゲまでやります」と書いてあり、それに気付いた時は「何のこっちゃ」と思ったが、あれはこのことだったんだな。講談の武田勝頼と真田幸村の幼少の下りが出て来て、これが『真田小僧』の「真田」の由来だ。この噺を通しで聴くのは初めてのような気がする(知っていたというのはどこかで聴いたのかも…)。普段寄席では時間の関係で最後までやらない噺を最後まで聴けたりするのも独演会の楽しみのひとつなのだが、この日はまさにその醍醐味を味わえた。

改めて感じる三三の素晴らしさは聴いていて安心して聴ける、噺がよどみない、くすぐりが「これでもか」というぐらい方々に目配りして散りばめられていて、まるで「くすぐりのデパート」、顔芸が面白い、形がよい(主観だが…)、瞬発力がある(その日の他の演者のネタや話題などを拾って来て枕や本題にさりげなく入れるなど)と挙げればキリがない。それに、進化している。先週の鈴本のトリでは『高砂や』を演じたが、三三のこの噺はYoutubeにも上がっている。大分若い頃の噺ということもあるのだろうが、Youtubeのものに比べ、先週の『高砂や』は明らかに進化していた。くすぐりの数が圧倒的に増えていたのだ。精進し続けていることが見て取れる。悪い意味でのいい加減さが見えない。その意味で客に対して誠実だと思う。東京の噺家では圧倒的なナンバーワンだと思う。勿論主観だが…

その昔、桂文楽が古今亭志ん生に「志ん朝に三遊亭圓朝を継がせよう」と言ったとか言わなかったとか。このことを知った時、三三にこそ圓朝を継いで欲しいと思った。

『真田小僧』を初めて聴いたのはもう30年以上も前のことで、大好きだった柳家権太楼が演じたものだったが、若い権太楼の演じる生意気な子どもの雰囲気がこの噺にピッタリで、なんとなく自分の中では『真田小僧』の標準みたいになっている気がする。いろいろな噺家の『真田小僧』が聴いてみたくなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?