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それは「表現欲求」か「承認欲求」か

これはまじでいつか書きたかったことの一つで。

何か表現したい、誰かに見てほしい、と思ったとき、そのモチベーションは純粋な「表現欲求」からきているのか、それとも「承認欲求」からきているのかっていうのは、ちゃんと見定めたいなと思っていて。

これは、人前で何か表現する機会が多い人のうち、「承認欲求」がモチベーションでその活動を行なっている人にとっては、耳の痛い話というか、胸くそ悪い話というか、面白くない話になると思う。

ので、そういうのは読みたくないよ、という方は、そっとこの記事を閉じて、この辺のほっこり記事をお読みいただけますと幸いです。

さて。それでも「読みたい!」という勇者たちよ。ついてきたまえ。

多分、今この記事を読んでいる読者さんは3パターンに分かれていて、

(1)表現欲求も承認欲求もあんまりない人
(2)表現欲求はあるけど、承認欲求は満たされている人
(3)ゴリゴリの承認欲求により表現活動をしており、この記事を読むといや〜な気分になると分かっていながら、それでもこの記事を読みたいM気質な人

の、いずれかだと思う。あなたはどのタイプ???

私は元々、それこそゴリゴリの承認欲求の塊のような人であった。

いつからなんだろう?さすがに生まれたての赤ちゃんだった頃は絶対に違うし、なんとなく3歳くらいまでは違ったろう。運命の分かれ道は、エレクトーンを習い始めてからだと思う。

姉も兄もエレクトーンをやっていて、その流れで私もやることになり、姉よりも兄よりも、兄弟の中では私が一番才能があり(この一連の流れ、兄弟あるあるな気が)、コンクールの地区大会に出ればいつでも賞を総なめ、九州大会の常連になったのであった。

田舎に住んでいたこともあって、コンクールやコンサートの度に地元紙で取り上げられ、「音楽といえば余年ちゃん」といった感じで、地元のプチ有名人になってしもうた。

幼い頃から、そんな栄誉を手にしてしまったがために、「音楽ができなければ私の価値は無し」という極端な考えに陥ったし、チヤホヤされる気持ちよさも知ってしまい「私はその他大勢とは違うのよ」という、曲がった優越感も持つ羽目になってしまった。。

運命とは、なんて残酷なんだ。。

で、そんな心境で音楽をやっていたもんだから、音を楽しむ余裕なんか一切なくなり、私にとって音楽はもはや競技、結果を出すための道具に過ぎなくなってしまった。

唯一、努力する楽しさを味わうことができたのは救いだったかもしれない。

めちゃくちゃ自分を追い込んだし、地味な練習をめちゃくちゃ続けて、この上なく努力した。

そんなふうに、自分には頑張る力があるんだということや、頑張ったら結果が出るんだという経験ができたのは、幸せなことだった(頑張っても報われないことがあると知るのは、大学受験の時である)。

まあ脱線しまくってしまったが、本題に戻ると、とにかく私は、そのくらい幼い頃から、「表現欲求」よりも「承認欲求」のために音楽をしていたような人間で。

大人になってからも、表現の手法は違えど、「承認欲求」を満たすために、表現活動をしていた。

それが変わったのは、ものすごく明確なきっかけがある。それは、「自分が養子だと知ったこと」(!)

そんな話、ドラマでしかないと思っていたような、まさにドラマチックな話だった。が、この話を詳しく書き出すと長くなるので、ここでは軽く触れるだけにしておこう。いつか絶対書きます、この話こそ、私が最も書くべき話かもしれないし。

私は、24歳の頃に、嘘みたいな出来事が重なって、嘘みたいなシチュエーションで、「自分が養子だったと知った」。

で、嘘みたいなほんとの話を両親から聞いて、「え〜!嘘みたい!!」って思いながらも、なんか不思議と、自分のピースがやっと出そろった感覚があって、今までどこか欠けていた感覚が、確かにあったなと気づいた。

そのピースがハマった瞬間に、私の承認欲求も、だいぶ収まった。

なんか、「特別な人間になりたい」ってすごく思ってたけど、私の人生、既にめちゃくちゃ特別だったなと知って、満足したのだ(笑)。

その時点では、まだ「承認欲求:表現欲求=7:3」くらいだったのだけど、その後、まあ色々あって、たぶん今やっと、「9:1」くらいにはなってきている。そのくらいの割合で書いているのが、この記事である。

まだまだ、承認欲求は私の中でうずいていて、それが私は、あんまり好きじゃないというか、最も人の心を動かす作品は、絶対に「承認欲求:表現欲求=10:0」だと信じているから、いつかは、その境地にたどり着きたいし、その境地にたどり着いた時、私はどんな手法で、何を表現するんだろう?もしくは、何も表現しなくなるのか?とか、興味ある。

そうなった時、自分が何をどう表現するのか、知りたいなと思う。

そんな、自分の中でのそういう歴史があるものだから、人様の発信も、”それは「表現欲求」か「承認欲求」か?”っていう視点で見てしまう自分がいて。

やだねーーーーそういう見方をする人!ともだちになりたくない!!すごくやだ!!

で、やっぱ好きなのはピュアっピュアな「表現欲求」で作られた作品で。

でも一方で、ゴリゴリの「承認欲求」によって突き動かされている人にも、ファンはつくということも分かっていて。

それは、ファンの人がそういうフィルターを持っていないのかもしれないし、持った上で、承認欲求の塊な人を好んでいるのかもしれないし、それは私には分からないのだけど。

つまりどんな人でも、ファンはついたりする。つかなかったりもするけど。

それは、地球上には、それだけいろんな嗜好を持った人がいるってことだよね。

はい、また横道にそれましたが。本題に戻すと。

それは「表現欲求」か「承認欲求」か。

最近私が、何かを見るときにかけているフィルターのお話でした。




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