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女性のお連れ様

宿泊者以外は客室へ立ち入るべからず――。

先々週泊まった関西のビジネスホテルは、それをエレベーター内に割と大きめに張り出していた。駅前飲み屋街の真ん中という立地であるし、ときどき問題を起こされるのだろうと推察したが、この掲示を読んで、以前別のホテルで経験した奇妙な出来事を思い出した。

“コロナ禍”前の春、仕事で長野県に行ったときのこと。駅から少し離れた国道沿いのビジネスホテルに宿をとった。移動は車だったから、駅前でなくてかまわないし、宿泊費をできるだけ抑えたかった。ホテル周辺は大手チェーンのロードサイド店舗が目立ち、全国どこでも見られるような景観を成していたが別にかまわない。ネットが使えて多少仕事ができ、狭くてもユニットバスがあって、あとは寝床があれば問題ない。

妙な出来事というのは、そのホテルで起こった。翌日は明け方にチェックアウトしたが、その際、フロント係の男性に妙なことをきかれた。「お客様は夜、女性のお連れ様がいらっしゃいましたね?」というのである。
泊まったのは私一人で、部屋にいたのはずっと私だけだ。
そう伝えるとフロントの方は、「そうでしたか」といってそれ以上追及してこなかったが、誤りを詫びるでもなく、怪訝な面持ちであった。

なぜそのような疑いをかけられることになったのか。もちろん気にはなったが、約束の時刻があったので、何も尋ねず私はホテルをあとにした。

たぶん人違いであろう。もしかするとホテルの方は、ご夫婦の客を私と宿泊者でない誰かに見まちがえたのかもしれない。あるいは、宿泊者でない女性を連れてきた客が誰か実際にいて、その人を私と思ったか。

しかし、本当に人違いだったのだろうかと、あとになって思い始めた。つまり、私からは見えない女性が私のそばにいるのをホテルの方が見た。そういう可能性はないだろうかと、すこし面白い想像をめぐらしたわけである。

例えば、あの夜遅く、私は近くのコンビニへ行った。メールで届いたファイルをプリントし、飲み物を買ってホテルに戻っただけだが、その行きか帰り、外を歩いている私を見たホテルの人が、私のそばに見知らぬ女性の姿を見たのかもしれない。あるいは、ホテルに戻ってエレベーターに乗り込む私に目をやったとき、私の前かうしろに見覚えのない女性の姿を見たのかもしれない。

防犯・監視カメラのモニターに映ったのかもしれないが、それにしてもその女性には、よほど現実感があったに違いない。幽霊やら狐狸・妖怪どころか、まぎれもない人間に見えた。そうでなければ、「女性のお連れ様がいらっしゃいましたね?」などと私に尋ねはしない。

さて、私の目には見えないその女性は、私の部屋にまでついて来たのだろうか。私がパソコンに向かって仕事をしているときや寝ているとき、あの部屋のどこかにいたのだろうか。
そうだとすれば、まったく戦慄すべきプライバシーの侵害というほかないわけだが、姿を見せてくれたなら、お話くらい多少うかがえたものを。客室で幽霊と話し込んで違約金を取られたなどという話は聞いたことがないし、心配は要らないのである。

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