「盂蘭盆」という語の意味
「盆」という語はそもそも何を意味するのかについての覚え書き。
まず、卓上の『岩波 仏教辞典』。「盆」項に「〈盂蘭盆〉の略語とされる」とあった。
「盂蘭盆」の項に移ると、語の意味については、「盂蘭盆経に出る語。〈盆〉〈お盆〉と略称する。『玄応音義』に基づき正しくは〈烏藍婆拏〉と書く。共にサンスクリット語 ullambana に相当する音写で、〈倒懸〉と漢訳され、さかさ吊りの苦痛を意味するといわれる。近年、イランの言語で霊魂を意味するウルヴァン urvan が原語だとする説もある。盂蘭盆経の説くところでは、目連救母説話に由来し、ともかく祖霊を死後の苦悩世界より救済する〈盂蘭盆会〉の仏事を生み、中国から日本に伝来して広く庶民に親しまれている〈後略〉」と書かれている。
同じく卓上の『禅学大辞典』の「盆」項は「①洗面器のこと」「②米を入れる器(桶)」「➂盂蘭盆会の略称。また盆会に、家業を休んで仏事供養をするところから、休業の意に用いることもある」と書かれている。
「盂蘭盆」の項に移ると、語の意味については、「インドの俗語 ullambana の音訳で、倒懸(さかさまに懸る)の意の梵語 avalambana の訛といわれ、死後さかさに吊されるような苦しみを救うために行う祭儀とされた。また盂蘭盆の原語として、俗語の ullumpana(救済)とする説もあるが、いずれも確証はなく、最近は語源・儀礼ともに中央アジアの原語・農耕儀礼に由来する説が有力である」と書かれている。
つまり、「盆」は「盂蘭盆」の略だが、その語の意味については複数の説があって結論が出ていない。
しかし近年有力視されている説として、以前ある先生から、仏教学者・辛島静志先生(2019年7月に61歳の若さで亡くなられた)が2013年に出された説の存在をうかがった。
その説は、盂蘭盆を、サンスクリット語やパーリ語で「お米を炊いたご飯」を意味する odana の口語形「olana」+食べものを盛る「容器」を指す漢語の「盆」であるとする(「『盂蘭盆』の本当の意味」『大法輪』2013年10月号)。
つまり、「olana盆」。olanaを音写して「盂蘭盆」だという。
odanaは、M. Monier-Williams『A Sanskrit-English Dictionary』には「a ball of boiled rice」、A. A. Macdonell『A Practical Sanskrit Dictionary』には「boiled rice」とある。水野弘元『増補改訂 パーリ語辞典』は「飯、米飯、粥」とする。
辛嶋先生によれば、「梵語の da は、インドの口語ではしばしば la と発音され」、odanaは「olana」となる。盂蘭盆の盂蘭は、この olana の音写の可能性があるということである。
盆は、『仏説盂蘭盆経』に「(百味の飲食をもって盂蘭盆の中に安じて、十方自恣の僧に施して」(以百味飲食安盂蘭盆中、施十方自恣僧)という部分があるため、「盂蘭盆が食べ物を入れる容器であることは明らかである。従って、『盆』は容器としての『盆』(漢語では鉢の意味)という通常の意味に他ならない。自恣の日に僧侶たちに施す、食事を盛った容器を『盂蘭盆』といっていることがわかる」とする。
そして、漢訳せず音写された理由は、「ただの米飯ではなく、自恣の日に僧たちに施される米飯であるということを示すためだったのではなかろうか。そして『盂蘭盆』とは『ご飯をいれた鉢』の意味と考えられる」ということである。
「自恣」は、サンスクリット語の pravāraṇā の訳。お釈迦様は35歳で悟りを開いたあと、80歳で亡くなるまで北インド中を移動し続けたが、毎年雨期の約3カ月間は一カ所にとどまって修行した(雨安居・夏安居)。その最終日である7月15日満月の日に「自恣」を行った。それは、お釈迦様と弟子たちが集い、忌憚なく罪を懺悔し合って反省する儀式であった。
辞書などで見られた数説をいったん列挙すると、
1. サンスクリット語で「逆さ吊り(倒懸)」を意味するullambana
2. サンスクリット語で「救済」を意味するのullumpana
3. イラン系のソグド人の言葉で「霊魂」を意味するurvan
4. 古代の東イランの方言で「死者」を意味するuravān
5. 辛島説:サンスクリット語やパーリ語で「米を炊いたご飯」を意味するodana+食べものを盛る「容器」を指す漢語の「盆」
倒懸説には、かねて疑問を抱いていた。なぜなら、盂蘭盆会の由来とされる『仏説盂蘭盆経』に倒懸の字はなく、逆さ吊りやそれに類する話もない。同経に描かれる苦しみは、釈尊十大弟子の目連尊者の母が、死後「餓鬼」となってその世界で受けている苦しみである。
ソグド語や古代の東イランの方言のことは私はわからないが、同経で盂蘭盆が霊魂の意味で使われている箇所はない。
辛島先生が述べる「olanaが訳されず音写された理由」も腑に落ちる。お盆のとき僧侶にご飯を布施する国や地域は今もあるそうで、以前、菩提寺でいただいた曹洞宗の小冊子『禅の友』2018年年8月号で次のような体験記を読んだ。
1998年頃、日本のあるお坊さんがカンボジアで、当地のお盆「プチュン・バン」の供養を受けた。お寺に行くと、大勢の村人が弁当箱を持参している。日本のお坊さんは、お寺のご住職からあなたも一緒に供養を受けるよういわれ、また、「目の前の食事には全て口をつけるように」ともいわれたという。日本のそのお坊さんは、こう記している。
辛島先生が「ただの米飯ではない」というのは、このようなことかと思った。
なぜ「自恣の日」なのかについては、『仏説盂蘭盆経』を読む限り、「ブッダがそう教えたから」としかいえなそうだ。
なお、『仏説盂蘭盆経』に見る目連救母説話のあらましは次のとおりである。
「神通第一」とされた目連尊者は、神通力(超能力)を得たとき、育ててくれた親の恩に報いたいと思った。しかし神通力で見えたのは、餓鬼の世界で苦しむ母の姿だった。
「飲物や食物はなく、母は骨と皮ばかりに痩せ衰えて骨が連なり浮き上がっているのがみえた。嘆き悲しんだ目連は、すぐさま鉢にご飯を盛りつけて、赴いてそれを母にたむけた。母は喜んで鉢のご飯を受けとるや左手で鉢をおさえ、右手でご飯をつかんだが、まだ口に入らないうちに、ご飯は熖となって燃え上がり、炭となって、ついに食べることができなかった」(藤井正雄『お盆のお経 仏説盂蘭盆経』)
目連はこのことをお釈迦様に相談した。するとお釈迦様は、自恣の日に僧侶たちに飲食物を布施して供養せよ、そうすればあなたの母は、その功徳により救われる、と教えた。実行したところ、そのとおりになったという。
このお経の終わりで、ブッダは弟子たちにこう説く。
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