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龍神様と気象現象

 個人的には誌名がなんとなく恥ずかしい『男の隠れ家』2024年5月号。「雑誌」というものを最近あまり買わなくなっていましたが、「龍神様と出会う 開運の旅」という特集だったので久々に買ってみました。
 「行ってみたいな」と思わせるような写真がいっぱい載っていて、やっぱり「雑誌ならでは」の楽しみがありますね。パソコンやスマホの画面とは解像度がぜんぜん違いますし、印刷物のニオイもやっぱり好き。

 特集のメインは奈良・宇陀、箱根、京都、諏訪ですが、「厄年に訪れたい開運スポット」という記事で、出羽三山神社の本殿前鏡池の龍神伝説とともに、同じ山形県鶴岡市の龍王尊善寳寺が紹介されていました。私にとって龍神様といえば善寳寺。一度は取材で、二度訪れたことがあります。「人面魚」や藤沢周平氏の『龍を見た男』でも有名なお寺です。

 善寳寺の本尊は、本堂である感應殿かんのうでんに祀られている東方薬師瑠璃光如来とうほうやくしるりこうにょらいですが、本堂裏の階段を上った一段高い場所に龍王殿りゅうおうでんという建物があり、戒名を「龍宮龍道大龍王りゅうぐうりゅうどうだいりゅおう」、「戒道大龍女かいどうだいりゅうにょ」という父娘の龍神二尊がそこに祀られています。

 「戒名」は仏弟子としての名ですが、伝承によれば、その龍の父娘が仏教に帰依し、戒を授かったところから善寶寺の龍神信仰が始まったということです。不退転の法楽(仏の教えを信じ、仏の道を歩むことで得られる喜びや楽しみ)を得た龍は、眷属けんぞく(部下・手下)を率いて未来永劫善寳寺を護ることや、自分に祈る者があればその心願を必ず成就させることを誓い、善寳寺の境内にある「貝喰かいばみの池」に身を隠したと伝わっています。

 貝喰の池は、本堂や坐禅堂が並んでいる場所へ行く階段を上らず右から回り込んだ丘の裏手にあります。

 「人面魚」(鯉です)もこの池にいます。人面魚が人気を集めたのは平成2年(1990)だそうですから、もう30年以上前のことですが、この池の人面魚は、龍の使いとも、龍になる前の姿ともお聞きしました。

 貝喰の池のほとりには龍神堂があって、そのそばに水源があり、池に水を注ぐ龍王沢があります。池水は地下水となって山下の一帯へ流れ、古くから農地をうるおしてきたとうかがいました。二龍神は、この水源に対する感謝などの思いから生まれた象徴なのかもしれません。この池の水が決してあふれないのは底が海とつながっているからだという言い伝えもあるそうです。

 龍王沢では、今も毎年立春に「お水取みずとり」が行われます。私は立ち会ったことはありませんが、沢で水を汲み、龍神に捧げる儀式だそうです。お坊様方や龍王講の講員や信者の方々が一人一杓ずつ、二龍神に捧げる水を二つの樽に汲む。水を汲むと願いが叶うそうです。

 善寳寺の二龍神は、信者さんの居住範囲がとても広く、北は北海道から東北、北陸、関東の房総の辺りにまで及んでいます。信仰は江戸時代以降、北前船の運航や北海道のニシン漁、北洋漁業の発展などを通じて大きく広まったようです。西の金毘羅さん(香川の金刀比羅宮)、東の善寳寺だそうで、今も漁業や海運の関係者に信者さんが多いそうです。

 善寳寺の龍神伝説を紹介しますと、善寳寺には「龍神三現」といって、この二龍神が3度現れた伝承があります。

 最初は天暦9年(955)頃。善寳寺の開基である妙達上人(生没年不詳)のもとに現れます。

 妙達上人は天暦5年(951)の秋に当地に草庵を結び、龍華寺と称したそうで、その場所は貝喰の池のほとりだったともいわれます。『大日本国法華験記』(1040~1044頃)によれば、妙達上人は地元鶴岡の金峯山麓生まれの修験者。『法華経』に帰依して比叡山、金峯山、羽黒山で修行を積んだといわれます。一度亡くなって7日後によみがえった不思議な伝説(『今昔物語集』『僧妙達蘇生往生記』)のある人物です。

 二龍神は、妙達上人が貝喰池のそばで『法華経』をよんでいるときに現れたそうです。上人は、彼らが金峯山で見たことのある二龍だと気づいて問うと、龍神は八大龍王の第三・娑竭羅龍王で、娘はその三女・善女龍王でした。『法華経』に登場する著名な龍王です。娑竭羅龍王はまず「序品」に、善女龍王は「提婆達多品」に見えます。二龍神は上人に『法華経』の教えと功徳を受けたいと願い、上人がそれに応じて『法華経』を読誦すると、二龍神は人から龍の姿に戻って貝喰の池に姿を隠したということです。

 二度目は、鎌倉時代の末で延慶2年(1309)。峨山韶碩禅師(1275~1366)が二龍神に会います。峨山禅師は曹洞宗で、道元禅師から4代目の祖師瑩山紹瑾禅師の弟子。のちに大本山總持寺二祖(二代目の住職)となる人で、五哲(五院)や二十五哲といわれる優れた弟子を育てて全国的に教えを広める基盤を形成した高僧です。伝説ではその峨山禅師が当地を巡錫中、妙達上人が坐禅をしたといわれる坐禅石で坐禅をしていました。そこへ二龍神が現れたということです。峨山禅師が彼らに戒を授けると、二龍神は喜び、やはり貝喰の池の底に姿を消したといいます。

 三度目は室町時代の文安3年(1447)。峨山禅師から数えて7代目の太年浄椿大和尚という人が二龍神に会ったそうです。太年浄椿大和尚が伽藍を建て、龍華寺を禅林として再興し、法要を行っていたところへ二龍神が出現。二龍神は戒脈伝授を願ったといいます。戒脈とは、お釈迦様から当人まで連綿と戒を伝授してきたことを証明する系譜のことです。太年浄椿大和尚は二龍神に龍宮龍道大龍王、戒道大龍女という戒名と戒のうけつがれてきたことを示す系譜図である「血脈」を授けました。

 そのとき龍神が述べたのが「我は八大龍王の一人なり。ともなえるは第三の龍女なり。先に妙達上人の甘露の妙典の功徳を受け、さらに峨山禅師に参じて戒を受け、ここに太年禅師には授戒で血脈を授けられ、不退転の法楽を得たり。我眷属を率いて尽未来際、この御山を守護せらん。我に祈請するものあらば、必ず心願成就せしめん」ということだそうで、そしてまた貝喰の池に姿を隠したと伝わっています。

 つまり、未来永劫にわたり善寳寺を護ること、また、自分たちに祈る者があれば必ずその心願を成就せしめるとを誓ったわけですが、これらの話が折り重なって「龍神様に祈ると願いは必ず叶う」ということで、信仰を集めたのでしょう。

 フィクションですが、龍神に祈って遭難を免れた『龍を見た男』の主人公である漁師・源四郎は、その一人ということになるでしょう。

 『龍を見た男』は同題の短編集の表題作で、今の山形県鶴岡市油戸あぶらとの漁村が舞台です。善寳寺から南西へ6~7km、車で10分ほど。主人公はそこの漁師・源四郎です。

 あらましを少しご紹介すると、源四郎は、善寳寺の龍神を信じるどころか、妻のおりくから参拝に誘われるまで、善寳寺が何のことかも知りませんでした。ほかの漁師や北前船の関係者をはじめ海とかかわる人々の多くが善寳寺の二龍神を拝み、ご祈禱を受けたり護符を授かったりしているというのに、源四郎は他の漁師たちと付き合わなかったので、そういう信仰があることすら知りません。

 源四郎が頼みとしたのは、何よりも「自分の力」でした。「人間は自分の力と運さ。運が尽きれば、神仏も助けてくれるわけがない」と考えています。そして屈強な体にものをいわせて、夜であっても、荒天でも少々ならば船を出す。他の漁師が海で嵐に巻き込まれることを恐れても、彼は「それは漁師としての細心の注意で防げる」と信じていました。

 しかしその信念は、いつも漁に連れて出て育てていた甥の寅蔵とらぞうを海で失ったことから、揺らぎ始めます。寅蔵を助けようと海に飛び込んだとき、海中には思いもかけない潮の流れが隠れており、このあたりの海は手にとるように知っているつもりの源四郎でしたが、寅蔵を救うことができませんでした。

 その後、落ち込んでいる源四郎を、妻のおりくが善寳寺へ参拝に連れ出すのです。

 さて、源四郎が妻と二人で貝喰の池に行ったときのこと。

おりくが神妙に眼をつぶって、池に向かって手を合わせたのを横目にみて、源四郎も手を合わせたが、目は汀近くに泳いでいる鯉の群れを眺めている。いい鯉だと思った。――何かが、いる。と思ったのは、おりくの後から歩き出そうとしたときである。源四郎は立ちどまった。自分の顔色が変るのがわかった。池の、青みどろに隠れた深みの底あたりに、何かがいた。源四郎の二十数年にわたる漁師としての勘が、その気配を掴んでいる。それは魚ではなかった。もっと巨大なものの気配だった。

『龍を見た男』新潮文庫

 書き方が、さすがだなと思いますが、それはさておき、源四郎はこのとき「初めて心の中に懼おそれのようなものが生まれていた」。

 そして後日の夜、源四郎は、漁に夢中になるうちに霧に包まれ、星一つ見えない闇の中を潮に流されるままとなってしまうということが起こります。源四郎は初めて恐怖に震え、頭の中に妻や姉、父、寅蔵の顔が浮かんでは消えた。そして思わず「龍神さま」とつぶやき、次には「助けてくれ、龍神さま」と絶叫した。

霧の奥に、地鳴りのような音を聞いたのはそのときである。不意に源四郎は、まばゆい光をみた。地上から雲間まで、闇を貫いてのびる一束の赤く巨大な火の柱だった。その火柱の中を、遠く空に駆けのぼる長大なものの姿が見えた。青黒くうねるそのものが、黒い雲の間に消えるまで、源四郎は呆然と見送ったが、その間に、火柱に照らし出された地形が網膜に焼きついていた。

『龍を見た男』新潮文庫

 これにより、源四郎は遭難を免れます。

 「長大なもの」が龍だったかはわかりません。源四郎がそれを何だと思ったかも書かれてはいません。命拾いした源四郎が、その後龍神を信じる者になったのかどうかも不明です。こうして読者に委ねて、余韻を残すところが藤沢作品らしい味わいだと思いますが、火柱の場面は、何らかの自然現象と読めなくもなく、極限状態の源四郎が落雷を見て錯覚を起こした可能性もあるように思えます。

 芥川龍之介『龍』の、恵印が龍を見る場面もそうでした。あくまで自然現象であって、錯覚であったようにも読めそうな書かれ方。

やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のやうな一すぢの雲が中空にたなびいたと思ひますと、見る間にそれが大きくなつて、今までのどかに晴れてゐた空が、俄にうす暗く変りました。その途端に一陣の風がさつと、猿沢の池に落ちて、鏡のやうに見えた水の面に無数の波を描きましたが、さすがに覚悟はしてゐながら慌てまどつた見物が、あれよあれよと申す間もなく、天を傾けてまつ白にどつと雨が降り出したではございませんか。のみならず雷神かみなりも急に凄じく嗚りはためいて、絶へず稲妻が梭をさのやうに飛びちがふのでございます。それが一度鍵の手群る雲を引つ裂いて、余る勢に池の水を柱の如く捲き起したやうでございましたが、恵印の眼にはその刹那、その水煙と雲との間に、金色こんじきの爪を閃かせて一文字に空へ昇つて行く十丈あまりの黒龍が、朦朧として映りました。が、それは瞬く暇で、後は唯風雨の中に、池をめぐった櫻の花がまつ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます。

芥川龍之介『龍』、『地獄変』文芸春秋社出版部、1926年 
芥川龍之介『龍』(『地獄変』文芸春秋社出版部、1926年より)初出:『中央公論』1919年5月
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1019197/1/75)

 芥川の『龍』は奈良での話です。先の赤い大きな鼻をした蔵人得業恵印くろうどとくごうえいんという法師がいて、「鼻蔵はなくら」などと自分をからかう人々を騙そうと画策し、3月3日にこの池から竜が昇るなどと書いた札をある池のほとりに立てます。しかし、春日大社の神官の娘の夢に龍が現れたとか、川魚売りの老人が池底に龍を見たとか、いろいろな話が聞かれ始めるのです。

 いよいよ3月3日になり、池に大勢の人が集まった。そして、皆が龍を目撃する。恵印は後日、立札は自分の嘘であったことを白状するが、誰も信じない、というお話です。

 本作は『宇治拾遺物語』巻11の6「蔵人得業猿沢池竜事くろうどとくごうさるさわのいけのりゅうのこと」が原話です。原話でも池から龍が昇るという立札をして、やはり人々が集まります。すると恵印は、自分の嘘なのに、もしや本当に龍が昇るのではないかという気がしてきて池に行くのですが、龍は現れなかった、というのが結びです。

 龍が昇る日は、原話では「その月のその日」とだけ書かれていますが、芥川氏は3月3日。旧暦なら新暦の3月下旬から4月下旬ですから、ちょうど今時期の「強風シーズン」です。

 『龍を見た男』では、こう書かれているところがあります。

少し沖に出て、がんぶつがれいを釣るつもりだった。がんぶつの漁期は三月から五月頃までと九月から十一月頃までの二回だが、秋は春にくらべて小さいものが釣れた。十二月に入ると、がんぶつがれいはほとんど釣れなくなる。いまが最後の漁期だった。

『龍を見た男』新潮文庫

 「がんぶつがれい」とは「ソウハチガレイ」の庄内における呼称、いわゆる地方名だそうですが、それはさておき、源四郎が火柱を見たのは、おそらく12月に近い11月だったのでしょう。旧暦なら新暦の11月下旬から1月上旬頃。それなら源四郎が見た「地鳴りのような音」や「光」は、日本海沿岸に多い「冬季の雷」だった可能性があるのかもしれません。「雪起こし」とか「鰤ぶり起こし」とも呼ばれる初冬の雷。その後に獲れ始めるハタハタは「鱩」とも書くそうです。

 「イワシの頭も信心から」などといいますが、不安や恐怖、龍神のような不思議で偉大な力に対する祈りといったものが、気象現象を龍に見せたのでしょうか。
 しかし見方を変えれば、それも知恵といいますか、人間の「生きようとする力」のなせる不思議な現象でもあるのかもしれません。ただ、今はいわば「理性」の時代。文字どおり言葉どおりに信仰するということが現代の常識ではおそらくあり得ないなかで、「信心」、心をまかせるということが、いかに矛盾せず広く可能かつ有用であるのかというと、それはとても難しくかつ興味深い問題です。

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