泉鏡花『眉かくしの霊』の奈良井宿「桔梗ヶ池」
きのう奈良井宿に立ち寄った。江戸・明治の時代まで時間を遡ったかのような錯覚に陥る。道路開発の対象とならなかったことからこの街並みが残った、と聞いたことがあったが、そういう偶然があったとしても、大変なご努力で守ってこられたのだろう。
奈良井宿は中山道六十九次、そのうち木曽十一宿の一。江戸時代に栄えたという。
木曽路というと、文学では島崎藤村『夜明け前』の舞台として有名で、奈良井もたびたび登場する。が、私にとって奈良井といえば、なんといっても、泉鏡花の怪異譚『眉かくしの霊』の舞台である。
それは、語り手の友人である境賛吉という画家が木曽路を旅していて、ここ奈良井の老舗旅館で幽霊を見る話。
泉鏡花独特の、あの話し、語り、修辞と写実。『眉かくしの霊』に限らず、泉鏡花の文体というのは、ためいきの漏れるばかりの、永遠の憧れであった。
話は変わるが、『眉かくしの霊』では、奈良井の鎮守の、そのお社のうしろの森の奥に「桔梗ヶ池」という池あって、そこに「奥様」と皆が呼ぶ「魔」がいて、その存在が物語のなかで重要な意味を持っている。それは凄まじく美しく、また凄まじく恐ろしいもので、何人もの人が目にしてはいるが、何者かは最後まで明らかにならない。が、「お艶」はこれと見誤られて命を失うのである。
それはなぜか――、という問題はさておき、ここへ来てみてふと思ったのが、「桔梗ヶ池」は実在するのだろうかということ。
それで「鎮神社」という鎮守があるから行ってみたが、「桔梗ヶ池」は、やはり架空のもののようだ。土地の方に聞いてみたところ、この宿場には六つの水源があるので、もしかしたらそういうものがほかにもあったか、小さな泉であるとか水たまりのようなものは、あったのかもしれない、とのことではあった。
しかし実在していたとしても、行ってみるのは、なんだか、ちょっと怖い。作り話とわかってはいても、『眉かくしの霊』、泉鏡花には、それくらいの力があるのである。