柘榴の味と人肉の味
※タイトル画像:『普賢十羅刹女像』(部分)、鎌倉時代・13世紀、絹本著色、1幅、縦112×横55cm、奈良国立博物館蔵、重要文化財、出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
森雅秀先生(仏教美術、金沢大学教授)の『仏教の女神たち』(春秋社、2017)を読んでいます。仏教の「女神」や「女性のほとけ」とは何なのかと、かねて関心はあったのです。
森先生によれば、部派仏教の時代(釈尊入滅〔入滅年は大別して3説ありますが、紀元前380年頃とする説が有力〕100年後から300年間ほど)を経て1世紀頃に大乗仏教が興ると、いろいろな仏・菩薩、天部の諸尊が現れますが、弁財天や吉祥天などを除いてほとんどは男性です。しかし、密教の時代(7~8世紀以降)になると女神が急増します。インドにおける仏教のヒンドゥー教への接近が起こったともいう時代ですね。本書はそうした女性神のうちターラー、孔雀明王、准胝観音、鬼子母神、吉祥天、弁財天などについて、それぞれの発祥や仏教に取り入れられた経緯、位置づけなどが平易に解説されており、これから調べていくうえでの入口としても大変ありがたい一冊です。
女神というと、個別には個人的に「鬼子母神」と「准胝観音」に関心がありました。(准胝観音はちょっと置いておき)鬼子母神についていいますと、例えば、近世日本の鬼子母神にはなぜ恐ろしい形相の「鬼形」が現れたのかとか、子どもを抱いている慈母観音とか子安観音と呼ばれる観音様は、あれは鬼子母神でもあるのではないかとか、また、ほかの女神と比べて鬼子母神は成り立ちや民衆における受容のされかたなど、さまざまな面で特異なところがあるように思えて気になる存在です。
今日はその鬼子母神の物語の「ある俗説」をめぐって、ちょっと書いておきたいと思いました。
鬼子母神は、サンスクリット語でハーリーティー(Hārītī)といい、漢訳仏典では訶利帝母、迦利帝母、訶梨帝母などと音写され、歓喜母、愛子母などの意訳があります。『雑宝蔵経』巻第九(『大正新脩大蔵経』第4巻)よると般闍迦(パーンチカ、Pāñcika)という老鬼神王である夫があり、1万人(1000とも500とも)もの子どもがいたということです。ですが、ハーリーティーは、他の家の幼児を次々にさらって食べる恐ろしい鬼神(薬叉))でした。
ハーリーティーはいくつもの仏典にその名が見えますが、「根本説一切有部」と呼ばれる部派の教団が伝えた『根本説一切有部毘奈耶雑事』という律文献(vinaya、僧団内の規則)の巻31には、ハーリーティーが何故そのような悪鬼になったのかの「因縁」を仏弟子たちがブッダ釈尊に尋ねるくだりが最後のほうに付加されています。
曰く、ハーリーティーは、過去世で牛飼いの妻であった。あるとき彼女は王舎城におけるある席に呼ばれて、妊娠中にもかかわらず、欲にまかせて舞踏をなし、そのせいで流産してしまったが、人々に放置された。するとそこへ近づいてきた聖者があった。彼女が彼に500個のマンゴーを布施すると、聖者は彼女を救おうとする心から、空に舞い上がるなどの神変を現す。それを目の当りにした彼女は大樹が崩れるがごとく帰趨し、「私が今この真実の福田に施したところの功徳により、来世は王舎城に生まれ、その城中で生まれる男女を皆取って食べることを願う」と発願した(参考:『国訳一切経印度撰述部』律部26、『大正新脩大蔵経』第24巻)。
それがために現世、あのような薬叉となったというのがブッダ釈尊の説明です。現在の常識的な感覚からすれば、素直には受け入れがたい話で、今、ブッダでもない人がこういうことをいえば即座に「炎上」するのでしょうけれども、因縁所生、前世の業報の全貌というものは「一切知者たるブッダにしか絶対にわからない」のが仏典における前提のようですから、とりあえず、そう伝えられてきたのだという話で聞いておきたいと思います。
さて、王舎城に生まれ変わった鬼子母は、子どもをさらっては食べるのですが、それに対しブッダ釈尊は、鬼子母が最もかわいがっていた末子の嬪伽羅(ピンガラ)を自分の鉢に隠してしまいます。鉢の内側から外は見えるが、外から嬪伽羅は見えない。
鬼子母は狂乱して何日も探しまわりますが、見つかりません。釈尊は鬼子母に対し、他者の立場に立って物事を考えるよう諭します。鬼子母は、子どもを奪われた親たちの悲しみや苦しみを身に染みて味わい、過ちを理解し、仏の教えに触れて心を改め、子どもを守る善神となった、というのが話の大略です。
『岩波仏教辞典』によると、日本では(庶民においてはわかりませんが)「平安末ごろには、すでに幼児の平安を願って、その名を守り札に書いて子共の首にかける習俗が行われていた」とのこと。また一説に鬼子母神は、平安時代のはじめ、弘法大師空海(774-835)による真言密教の将来とともに日本に伝わったと考えられているようです。空海が唐で書写して持ち帰った「三十帖策子」と呼ばれるノート30冊(もともと38冊あったそうですが30冊が現存)の中に、鬼子母神にまつわる『詞利帝母真言法』や『大薬叉女歓喜母井愛子成就法』という経典が含まれています。
さて、鬼子母神が改心したときの話で、割と有名な不思議な話がありますよね。ブッダ釈尊が鬼子母神に対し、人が食べたくなったら柘榴を食べるよう教えたとか、柘榴は人肉の味がするからと言ったとかいう、あの話。
例えば、岡本かの子氏(1889~1939)の短編小説『鬼子母の愛』(1928年)のこの結びです。
ブッダが鬼子母神に対し、人が食べたくなったら「吉祥菓」(何かは不明で、中国では柘榴と解された)を食べるよう教え、吉祥菓は人肉の味がするからと言ったとするこの話、結論をいえば、そういう話は仏典には書かれていないようです。仏教学者の小川貫弌氏も次のように述べています。
「吉祥菓」は、漢訳仏典では「吉祥果」とも「吉祥菓」とも書かれています。中国では一般に「柘榴」と解され、日本では、南方熊楠氏(1867~1941)が初め柘榴と考えたのを「マンゴー」に説を訂正するなど(『郷土研究一至三号を読む』1913年)他説はあるようですが、やはり仏典の注釈書にある「吉祥果者柘榴也」(『秘鈔問答』)という記述や「右手近乳掌吉祥果」(『大薬叉女歓喜母并愛子成就法』)などの儀軌(造像の基準)どおり、鬼子母神は柘榴を手に持つものと一般には考えられています。その影響からか、柘榴を鬼子母神に供える風習があったり、そのお堂のある境内に柘榴の木が植えられていたり、柘榴の実を図案化して紋に取り入れていたりするようです。
岡本氏は『鬼子母の愛』の中で、柘榴と人肉の味というこの話を「採録する」と書いています。しかし、「仏教研究家」でもある岡本氏が、そのような話が仏典にないことを知らないはずはなく、するとこれは「採録する」としたことも含めた創作ということになります。岡本氏は仏教研究家でもあるだけに、そういう仏教説話が本当にあるのだろうと思った読者はいたかもしれません。
さて、柘榴の謎ですが、ハーリーティー信仰の最も古い痕跡は、ガンダーラ地方に見られます。今のパキスタン北部からアフガニスタン東部にかけての地域であり、インドとギリシャの文化が出合って「ガンダーラ美術」が生まれ、紀元前後から数世紀にわたって栄えた「仏像発祥の地」です。そこで紀元前1世紀頃のハーリーティー像が見つかっており、夫のパーンチカ(Pāñcika)や子どもたちとともに彫られ、安産、多産、豊饒豊穣や富の神であったといわれます。
しかし、ガンダーラのハーリーティー像をいろいろと見ても、柘榴らしきものを手に持った作例がありません。手に何か持っていても、それは「葡萄」のような果実か、「コルヌコピア」(豊穣の角)のようなものです。コルヌコピアは、果物、穀物、野菜などの収穫物を詰め込んだヤギの角形の籠で、ギリシャ神話における豊穣の象徴とされています。
そもそもなぜ柘榴なのか。
森雅秀先生は「柘榴が鬼子母神の持物になったのは唐代の中国においてであり、とくに西トルキスタンのソグディアナの女神像が影響を与えた可能性も指摘されている」、「ガンダーラから西に広がるヘレニズム世界では、柘榴は豊穣や生殖と関連を持つ女神のシンボルやアトリビュートとして広く知られた植物である」とし、女性器や胎内、血液の連想を指摘しながら、ギリシャ神話、キリスト教における柘榴の象徴性を紹介されています(『仏教の女神たち』)。
要するに、柘榴とハーリーティーは、唐において、仏教とは別の宗教・文脈から合流したということのようですが、そうなって定式化した事実は、やはり柘榴が鬼子母神の神としての性格を象徴するものであったからだろうと考えられるのかもしれません。
岡本かの子作『鬼子母の愛』に話を戻しますが、では「柘榴は人肉の味がするから釈尊が鬼子母神に勧めた」という話が、岡本氏が独自に考えついたものかというと、多分そうではなさそうです。
というのも、これも私が知る限りですが、私の好きな泉鏡花氏(1873~1939)の明治42年(1909)の短編作品『吉祥果』(泉鏡太郎名義)にもそういう話があります。『鬼子母の愛』は昭和3年(1928)の新聞連載作品ですから、20年近く遡ります。
また、国会図書館の蔵書を検索していたところ、「柘榴は人肉の味」という話は学校教育の場でも聞かれた話のようで、富助一氏という方の『学校学級 鑑賞説話選集』(文化書房、1931年)の「宗教編」に『子育て鬼子母神』という話が収録されており、その終盤にこう書かれています。
出典は不明ですが、本文末尾にある「(武田一郎氏)」が話の原著者であろうと思います。調べると同姓同名の教育学者がいます。また、富助一氏という方は、内村鑑三氏(1861~1930)の門下生に長年学校で教師を務めた教育者の方がいて、この人物と同一人物なら昭和47年(1972)に88歳で亡くなられています。
富氏は「愛読書の中から、或は新聞雑誌その他の読物中から、選択したり、基地抜いたり、抜粋したり、改作したり又創作したりして来たものが沢山集つたので、それを整理し組織して成つたものが本書であります」と「序」に記し、「直接児童生徒を対象としたのでなく、教師を通して児童生徒へと、理解させ、鑑賞させるため」という編集意図を述べています。
「人間の肉の味によく似てゐる柘榴の実をお授けになりました」とあり、「人肉の味に似ているから授けた」とは本書では書かれていませんが、柘榴と人肉の味の話は、すでに流布浸透していて、学校教育の中でも違和感なく受け入れられていた話なのではないかと思います。
では、この『子育て鬼子母神』の原著者らしき「武田一郎」という人も、岡本かの子氏も泉鏡花氏も、柘榴の味と人肉の味についてのことを、どこで読んだか、あるいは聞いたかしたのでしょう。両親や祖父祖母などから、昔話のように聞いたものなのでしょうか。
泉鏡花氏に関しては実家が日蓮宗であり、故郷金沢では、よくお母上と一緒に卯辰山山麓の「柘榴寺」こと日蓮宗の真成寺(しんじょうじ)をお参りされたといいます。しかし鬼子母神信仰で著名なお寺です。当時のご住職などがそういう「俗説」を話されたりしたかというと、考えにくいかもしれません。
ということで、話の出どころは依然不明です。振り出しに戻ってしまいましたが、そういう話が語られうる空気のようなものが、江戸時代にはあったのではないかという気はしています。
鬼子母神が庶民の信仰を集めた江戸時代には、鬼子母神についての川柳が数多くうたわれたそうで、例えば次のようなものがあります。
「黒歴史」ともいえないほど酷い、惨いことをした鬼子母神の過去を、「いじる」ような川柳ですが、根底には、江戸の人々の鬼子母神に対する親近感があるような気がします。
戦乱の時代が終わり、厭離穢土欣求浄土というより、苦も楽もそのままに、今生を、浮世を、なるだけ明るく生きていこうというような近世江戸の雰囲気の中で、鬼子母神の過去の数奇、あるいは因縁を憐れむような気持ちを抱いたり、改心して誓いを立てて生きたところに何か「あっぱれ」を感じたり、子だくさんの苦労を想像したりと、鬼子母神は何かしら庶民の心を揺さぶる存在だったのではないかと想像します。
「今度それが支度くなつたら吉祥菓をお喰べ。あれは人肉の味がするよ――/釈尊は根が苦労人でおはす」という岡本かの子『鬼子母の愛』の結びには、それと似たような江戸風の共感があるように感じられます。
まあ、よその子どもつかまえて食べるなんて、とんでもない話なのですが。