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湧水とお坊さん

 今年夏に訪ねたあるお寺は、境内に水量豊富な湧水があって、誰でも飲めるようになっていました。その甘露味たるや、ことばでは表せないほどでしたが、その水には壮絶な由来伝説がありました。
 昔々、当地の井戸が枯れてしまい、皆困っていたところへあるお坊さんがやって来たそうです。村人のために一肌脱ぐことを決意したお坊さんは、自分の血を使っての写経、長時間の坐禅や凄まじい断食、祈禱を続け、疲れ果て、無念の思いで金剛杖にすがったその時、その水が噴き出したのだといいます。

 それで思い出したのが、何年か前に関西地方のあるお坊さんからうかがったご本人の不思議な体験談です。

 その方が住職されているお寺は、海岸から10kmほど内陸に入った農村にあります。地域の皆さんは、ほとんどが農業者。村の土地は山々に挟まれており、鳥瞰すれば細長いはずですが、広々と開けているため、山間と平野の中間といった印象を受けます。

 見渡して目に入るものは、田んぼ、畑、それに少しの果樹園と山。そして、田んぼより一段高い場所に並ぶ家々と、平らな農地にところどころ、島のように浮かぶ、こんもりとした林。土壌は好適で、山々からもたらされる水は質が良く、量も十分だということです。

 お寺は山沿いにあり、そのような平地を見下ろせる坂の上で、山を背に諸堂を構えています。山門の前を小川が流れ、何やら小さな魚やエビたちが棲んでいます。サンショウウオやウナギもいるそうです。水がきれいです。お寺の飲用水と生活用水は井戸水で、集落には今も水道がない家がまだ何軒かあるそうです。とても質のいい地下水だとうかがいます。

 さて、もう30年近く前のことだそうですが、そんな村に、とある工場を誘致する話が降って湧いた。これを受け、地元では環境への影響にかんする研究が始まり、結局、農業者を中心とする地元の人々と、行政・議会が対立することとなったそうです。

 お坊さんも悩んだ結果、工場反対の考えに至った。

 反対運動が始まってしばらく経った頃、工場で使う地下水をくみ上げる井戸をつくるためのボーリングが始まった。お坊さんは、抗議活動の一環として日々一人でお経を唱えながら村をめぐり歩きましたが、粛々と進められる工事の現場を見て、自分の無力を思い知らされたといいます。

 「かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃーはーらみーたーじー、ってね、『般若心経』をお唱えしながら、でも心の中では、一体もうどうしたらいいのだろうって」

 そして思わず錫杖を上げ、なんとなく、ボーリング現場の地面をコツン、コツンと突いたそうです。

 「仏さま、なんとかしてくださいという思いでした」

 すると後日、そこから炭酸水が出たといいます。炭酸水は、工場では使えない。

 「だから違う場所でまたボーリングが始まったのですが、私はまたそこへ行って、錫杖でコツン、コツンとやってみたんですよ。すると、そこからも炭酸水が出た」

 水に恵まれた地域ですが、それらのところから炭酸水が湧くとは地元農家の方々も知らず、誰もが驚いたそうです。

 この結果、工場誘致は白紙に戻された、というのが事の顛末ですが、この話、まるで中世高僧の霊験譚のようだと思いました。

 お坊さんの行いで水や温泉が湧いた伝説は各地にあります。(相手にとって)都合の悪い水が湧いて相手を退けた型の話は思い当たりませんが、それにしてもじつに不思議な話ではあります。H. G. ウェルズの『宇宙戦争』は、地球のどこにでもいるバクテリアが異星人を退けますが、この話の型は、むしろそちらに近いのかもしれません。

 中世ならば、少々のアレンジを加えて説話集にでも収録されそうな、ちょっと不思議なお話でした。

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