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4月28日:当事者団体の功罪とコミュニティのあり方

おはようございます。
へいなかです。

わが家のコロナは無事終わり、後遺症もほぼ消失したのですが…折り悪く娘の保育園でコロナ陽性者が出て、今週いっぱい休園だそうです。娘の大親友が陽性になってしまって無事回復を祈る日々。

しかしまぁ…やっぱりコロナのダメージって体調もさることながら人の感染対策によるものの方が大きいなと思いますね。

そりゃもちろん自分たちが無症状や軽症で済んだから言えることなのかもしれませんが、それも含めて風邪やインフルエンザ、ノロウイルスと大して変わりません。

マスク外せる国に…ならないだろうなぁまだ当分。

さて…

いきなり辛気臭い話をしてしまいましたが、今日は当事者団体について。結論は「当事者が集まるってリスクもあるんだよ」という話。加えて、昨今のコミュニティブームについてぼんやり思うことを書いてみます。

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まずはツイートから転載。

いかなる領域においても「当事者」というのは集まりやすい。

依存症・セクシャルマイノリティ・難病・いじめや虐待…世の中にはたくんさんの「当事者団体」がある。広い意味では「同業者の団体」も当事者団体と言えるだろう。

診断名や肩書・経験が同じ(極めて近い)者同士だから集まりやすいのだ。

もちろん個々に見れば、当事者でありながらほかの当事者とつながれずに様々な感情を抱えている人もいる。

実際世の中には様々な当事者団体があり、生きづらさを抱える人にとって「当事者団体とつながる」が大事なライフラインになっているのも事実だ。

当事者同士がつながることの意味は大きい。

僕はいずれの団体にも属していないが…少年院で働いていた経験上、薬物依存の当事者団体については多少知っているもりだ。

DARC(ダルク)
NA
薬家連

薬物依存の当事者やその家族の当事者グループだ。いずれも全国区の団体でダルクはタレントの薬物依存に関するニュースでも話題になった。

教官時代には薬物非行防止プログラムにも関わっていたことがあり、ダルクの方々とは何度も直接お会いした。

薬物依存については検索すれば様々な情報が出てくるが、僕も以前noteに書いたので興味のある方は読んでいただけたらと思う。

いずれにしても僕は、あくまで非当事者・非団体員の立場ではあるものの…多少、当事者団体の実際のところを知っているように思う。

要するに「集まったはいいものの結局うまくいかない」みたいなケースがなくはないということだ。

うまくいかないケース①:団体の活動自体が目的になってしまう。

当事者の多くは孤独感を抱えている。身近なところに理解者がおらず、苦しみを吐き出す場所もない。そんな中で団体につながり癒やされる。

結果…

「団体での活動こそすべて」になり本来の目的である自分の人生の前進がおろそかになる。

ケース②:先人の解釈やセオリーがすべてになる。

当事者同士とはいえ実際に抱えているものは微妙に違う。

だから本来、新規メンバーに対しては丁寧に話を聴き、ゼロベースで共に考える姿勢が必要。

にも関わらず…

自身の経験や団体のこれまでの蓄積が頑強すぎて新規の方がかえって苦痛を感じてしまう。

ケース③:恋愛

孤独を抱えた当事者たちが分かりやすい共通点を抱えて集まる。そこには過剰な共感が生まれやすく互いに依存もしやすい。

団体が認めているかどうかはともかく、メンバー同士が恋愛や不倫等の関係になることは少なくない。 それ自体は必ずしも悪くはないが、特に破談すると厄介。

ケース④:社会との溝を深めてしまう

当事者同士が集まる中で時に「結局同じ経験をした人じゃなきゃわかり合えない」という雰囲気になることがある。

本来社会とつながり直すためのチューニングの場だったはずが…集団で「対社会」の構図を作ってしまい、余計に非当事者との間に溝を作ってしまう。

これらは当事者団体に限らずあらゆる団体で起こりうる。それ自体が必ずしも悪いわけでもない。

特に④は気をつけたい。当事者団体はこれが一番厄介だと思う。社会と分断してしまうと生きづらさは軽減しない。 日常でこれまで以上に溝を感じ、団体に帰ってきて一時的に癒やす…負のループ。

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ここからは個人的な考察

細かく説明すると煩雑になるので語弊を承知で結論から書くが、「当事者」…つまり何らかの生きづらさを抱えた人たちは大抵コミュニケーション能力があまり高くない。

「話が下手」とは限らないし「暗い」とも限らないのだが、特に是々非々の判断と他者の話を受け流すことが苦手で、要するに人ときちんとつながれない。

会話の上手下手というより、内面的なつながりの創出と尊重が苦手なイメージだ。

その要因もいくつか考えられるが、1つには「見えないもの」を感じ、大切にする感覚の希薄さだろうと僕は思う。

(その背景には生い立ちなどに起因する抽象化スキルや想像力の未熟さがあると思うが、今回は割愛する)

要するに「当事者」は、自分の生きづらさの根源である依存や病、被害や特性を絶対視し、その有無だけで「共感できるかできないか」を判断してしまっているように思うのだ。

人の価値観や考え方・感じ方は目に見えない。

その一方でプロフィールに書かれた項目は目に見える。自分についたラベル(診断名や被害を受けた犯罪名、セクシャリティなど)は目で見てすぐ共通点として理解できるのだ。

本来、人は違ってもともと。

「違う」を前提に「ここは同じ」を見つけていく作業がコミュニケーション。「ここは同じ」を大事にしていくことがつながりの基本だ。

しかし

差異を尊重されず、違いを受け入れてもらえず、孤独感に苛まれてきた人たちは、そもそも目に見えないものを感じられない。

結果

目に見える共通点に飛びついて、よく考えもせず「寄り添い」という名の傷の舐め合いを始めてしまう。

人生ではじめてできたつながりに依存し、そこがすべてであると錯覚し、本来の目的を忘れて寄りかかってしまう。

それでもメンバーがみな健康に生きていけるならいいのだが、元々コミュニケーションが苦手な人たちが集まってできた団体…。対人トラブルは団体自体の致命傷にもなりうる。

そうして内側から崩壊した団体はたくさんあるだろうと思う。

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さてここからはコミュニティの話。

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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。