人魚の眠る家
皆さんこんばんは。
今日も映画のレビューをしたいと思います。
これは、2018年に公開された東野圭吾原作の映画です。
Netflixなどの配信サイトで公開されていますので、ぜひ観てみてください。
この作品は一言で言うと「生きるとはどういうことか」ということを考えさせられる作品です。
簡単にあらすじをご説明します。
ある日、娘の瑞穂がプールで溺れ、意識不明の状態に陥ってしまいます。回復の見込みがないと診断され、深く眠り続ける娘を前に、薫子と和昌はある決断を下しますがそのことが次第に運命の歯車を狂わせていく。
こんな感じの物語です。
ここから先はネタバレも含みますので、映画を観てからご覧ください。
この作品では、まず、娘がプールで溺れ、意識不明の状態になってしまいます。
ここから作品が始まっていくのですが、その病院で医師に脳死の疑いであるということを告げられます。
移植というのは大まかに2種類、生体臓器移植と死体臓器移植があります。
さらに死体臓器移植には、脳死患者から移植するものと心停止患者から移植するものに分けられます。
なぜ移植についてあげたかということは理由があります。
医師に脳死である可能性について告げられたときに、移植についても一緒に告げられました。
僕も法律は詳しくないので、全くわからないのですが、作中で出てきた内容で説明します。間違っているかもしれないので、詳しくは調べてください。
移植する意思、未成年の場合は親の同意も必要なのですが、それがないと、脳死の判定ということはできないそうです。
では、移植の意思がない場合はどうなるのでしょうか。
脳死の判定ができないので、延命治療をしていくことになるそうです。
そこで、両親は一度、移植を考えたのですが、脳死患者では良くあることなのらしいのですが、脊髄反射によって身体が動くことがあるそうです。それを、動いた、生きていると感じた母親の米倉涼子演じる薫子は移植を拒否し、延命することを選択しました。
横隔膜ペースメーカーという技術、これは実際にもあるものみたいですが、を用いて人工呼吸器から離脱し、家に帰ることができるようになっていきます。
ある日、西島秀俊演じる夫の和昌が社長を務める会社で、電気信号を送ることで、身体を動かす研究をしている研究員がいました。
それを娘に用い、身体が動くようになっていき、薫子はこれで、より娘が生きていることを実感します。
そして、どんどん物語は進んでいきます。
本当の終盤に僕は「生きる」ということに考えさせられる場面がありました。
この家族には、息子も1人いるのですが、この子の誕生会がありました。
薫子は息子は友達を呼んでると思い、どんどん準備をしています。
しかし、息子は友達を呼んでおらず、その理由をこう言いました。
「お母さんがお姉ちゃんを会わせるっていうから」
「もう死んだって言ったから、そう言わないといじめられそうだったんだもん」
「でも、もう死んだって言ったらみんな何も言わなくなったもん」
こう言ったんですね。
この前に息子の入学式に薫子は娘を連れて行きました。
その時に友達に色々と言われたんでしょうね。
小学校低学年の子たちには娘は動いてないし、目をつぶって座っているだけ、生きてるかわからないのでしょう。
息子にこう言われ、薫子はもちろん憤慨するでしょう。平手打ち。
そうすると、夫や他の登場人物と口論になりました。
その後、薫子は包丁を持ち出し、警察に電話し、さらに娘に包丁を突きつけました。
みんなが集まったところで
薫子「ここにいるのは私の娘です。今ここで私が刺して、心臓を心臓を止めたら罪に問われますか。」
警察官「もちろん罪になります。娘さんが死ねば殺人罪ですよ」
薫子「でも、病院の医師からはこの子はおそらく脳死しているかもしれないと言われています。すでに死んでいるのに殺人罪になるんですか。もし、脳死判定をしていたら脳死と確定していたのかもしれないんですよ。」
「それでも娘を殺したのは私ですか。」
こう言ったのです。
さらに、
「生きてる死体にしておけない」
「生きているのか死んでいるのか法律に国に決めてもらう。娘がとっくに死んでいて技術が外見だけを保っていたなら殺人罪に問われない。生きていたなら人殺し。でも喜んで刑に服します。」
「生きていたってお墨付きをもらえたわけだから」
こういう場面が出た瞬間僕はざわっとしました。
また、生きるということについて考えさせられる場面がありました。
この後、娘は尿崩症になり、体調を崩してしまいます。
その時両親は、移植をすることを決めました。
そして、移植をするため、脳死判定を受けました。
その後の葬式の際の場面です。
主治医が葬式に来てくれました。
その時、医師は没した日に注目しました。それは脳死判定を受けた日ではなく、薫子が娘から夢の中で別れを告げられた日でした。
また、医師から和昌にこのことについてどう思うか聞かれた時に
「脳死が人の死なのかはわかりません。でも死を実感した時は心臓が止まったときかな」
そうすると医師は
「そうするとご主人の中で娘さんはまだ生きてますね。娘さんの心臓はこの世界のどこかでまだ動いてますから」
と言いました。
これらを観て人の死と生きるいうものについて非常に考えさせられました。
僕も医療人ではあるものの、なかなかこういうことを考える機会はありませんでした。
人はいつ死ぬのでしょうか。
心臓が止まった時でしょうか、今回のように脳死判定を受けた時でしょうか、それとも移植した心臓、腎臓、肝臓を持っている人が死んだ時でしょうか、はたまた存在を忘れられた時でしょうか。
おそらく、心臓が止まった時は死の一つの状態であると考えて差し支えはないと思います。
死というものは、この状態になったら死だとなかなか簡単に言えるようなものではなさそうです。
また、生きるということはどういうことでしょうか。
今回のように、脳死ではあるかもしれないけど判定は受けてない、心臓は動いている。これは生きているのでしょうか。
僕は生きているのではないかなと思います。
考えることはできないかもしれない。でも、心臓は動いている。触ればきっと暖かいのでしょう。端午の節句には着物を着ているのです。
これを僕個人としては、死んでいるとは考えられないです。
生きている、仮にここでは心臓が動いていることと定義しましょう。
その場合、ただ心臓が動いているだけで我々は生きているのでしょうか。
ご飯を食べ、服を着る、呼吸をして、排泄もする。といった人間の基本的な機能だけではなく、飲み会に行ったり、テーマパークに行ったり、恋をしたり、映画を見たり、趣味に打ち込んだり。
僕たちはいろいろなことをしながら生きているわけです。
ただ心臓を動かすことだけが、生きるということではないのです。
医療というものは、まず、心臓、脳、肺など様々な臓器を動かすことを目的にしているのかもしれません。手術をしたり、薬を使ったり、リハビリをして、機能を回復させたり、維持させていきます。
しかし、医療は命を永らえさせるだけにあってはいけないものだと思います。
もちろん身体が動かないと自分のしたいこと、いろいろなことをできないわけです。
治療をしないという選択もあると思います。
治療をする、治療をしないという選択を本人に迫るのは非常に難しいことです。
疾患について告知され、正常な判断ができないかもしれない。
その中で、本人にとって最適な選択ができるように支援したり、選択したことに対する支援をすることが重要なのだと思います。
今回の作品では、
生きることと死ぬこと
その両方について考えさせられました。
一医療人として、対象者のためにどうしていけばいいかを考えていきたいなと思いました。