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美術史ではヒゲ男もしくは左端の若者がマタイとされているのです。
自分でやってみればすぐわかりますが、右手首を絵のように曲げた上で親指を人差し指の先につけると、爪は上ではなく横を向くのです。したがってこれはメガネ男の左手なのです。小指が妙に太いのですが、若者の小指も同様なのです。
メガネ男が左手でメガネを調節しているとされていますが、ヒゲ男の右手なのです。こちらも小指が妙に太いのです。
右側奥のイケメンがイエスとされていますが、頭の上の輪っかには陰ができているのです。しかし光輪は自発光するから、陰ができるはずがないのです。したがってこれはハリガネ細工か何かなのです。
『聖マタイの召命』は見かけは注文通りですが、念入りな「だまし絵」なのです。イエスは右手前の小汚いおっさん、マタイは彼の話に興味を示している右端の若者なのです。信仰者にはこれで全てであり、残りの人物はどうでもいいことなのです(間違いなくギャグを盛っているはずですが)。美術史における解釈は光輪とハリガネ細工の区別もつかない不信心者によるものなのです。
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『聖マタイの召命』はマタイ9:9を描いているとされていますが、同じ場面はマルコ書とルカ書にもあるのです。ギリシャ語の原文(マタイ書9章、マルコ書2章、ルカ書5章)
主にマタイ書を見ていくのです。「徴税人」「罪人」は活用は違いますがいずれも「τελώνης」「ἁμαρτωλός」なのです。
「徴税人τελώνης」はτέλος+ὠνέομαιの合成なのです。ὠνέομαιは英語のbuyなのです。
τέλοςには非常に多くの意味がありますが、アルケーᾰ̓ρχήと対をなすのです。
宗教的文脈からは、τελώνηςを徴税人とするのは非常につまらない解釈で、「真理(テロス)を金で買う者」あたりが罰当たりでふさわしいのです。
「収税所τελώνιον」もτέλος+νιον場所なので、「イニシエーションの場所」としたほうがよほどつじつまが合うのです。当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されており、徴税人は同胞から税を取り立てた上に横領していたので非常に嫌われていたそうですが、それに引っ掛けたのです。
古代ギリシャ語やラテン語では形容詞を名詞的に使うことがよくあるのですが、「罪人ἁμαρτωλός」は「(道を)間違えた人」なのです。
光輪とハリガネ細工の区別もつかない注文主や美術史家みたいな不信心者をイエスは救うのです。これはカラヴァッジョの愛なのです。善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや、アーメン(まことにそうです)。
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マタイ9:9の「(マタイと)いうλεγόμενον」と「(「わたしに従いなさい」と)言われたλέγει」はどちらも原形は
なのです。これはヨハネ1:1の
「言ὁ λόγος」と同じ語源なのです。
「マタイ」は人が呼ぶ仮の名だが、イエスは真の名=ロゴスでマタイを呼び、マタイは自分のテロス=信仰に目覚めたのです。これは意志とは無関係なところで「運命が変わった」ということだから、断じて絵面には表れないのです。
λέγει(He says)はここではVerb-Present-Indicative-Active-3rd Person-Singularとなっていますが
Verb-Present-Indicative-Middle or Passive-2nd Person-Singularの活用でもあります。つづくαὐτῷ(to him)はPPro-DM3Sと男性になっていますが、中性も同じ形です。
なので英語にしづらいですが、you are said by itselfとも解釈できるのです。自分の内なる声が中動態で自分に言ったのです。これは古代ギリシャの「ダイモーンδαίμων」のことなのです。
ἠκολούθησεν(he followed)はVerb-Aorist-Indicative-Active-3rd Person-Singularですが、αὐτῷ(Him)は与格なので、「イエスに従った」という意味合いなのです。しかしἀναστὰς(having arisen)も三人称なのでイエスが動作主でもありえ、「イエスを追いかけた」と解釈することもできるのです。まとめると
となるのです。イエスは立ち去る身振りをし、マタイは「内なる声に従い」「彼を追いかけた」のです。「わたしに従いなさい」がロゴスであるなら、断じて声に出すことはできないのです。
新約聖書ではこれは端的に間違いなのです。映画やアニメではイエスの代わりに握手などさまざまな表象がありますが、この絵と同様に不信心者には見えないようになっているのです。
ちなみに、さやかが降らせているのは「運命の輪」なのです。
杏子はほむらではなくさやかを選んだのです。
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マタイ9:13の「(罪人を)招くκαλέσαι」の原形はκαλέωで
こちらにも「名前で呼ぶ」という意味がありますが、巫女の言うとおりテオス(神)と人間の中間にダイモーンがあり、罪人のダイモーンをsummonしてテロスをinvokeするのがロゴスなのです。
ダイモーンに従うと人は自由で幸福になるのですが、聞こえない人は欲に従うので、不自由で「生きづらく」なるのです。むしろダイモーンに従って初めて人間はテロスを知るもの=死すべきものとなり、それまではゾンビなのです。
東洋ではダイモーンは「仏性」なのです。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」アーメン。
人間においてはロゴスの「多義性」がダイモーンを召喚し、マタイ9:9ならἈκολούθει μοι(follow Me)、『聖マタイの召命』ならハリガネ細工なのです。カラヴァッジョは絵面にも言葉にもできないものを描くために「だまし」を使ったのです。こういった技法は西洋ではプラトンが起源ですが、新約聖書のラテン語訳ではかなり抜け落ちているのです。ギリシャ語で読んだのでしょう。こういったものは自分で気づく必要がありますが、知識として知っているかどうかは無関係なので、気が向いたときに見ると恩寵があるでしょう。
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マタイ18:15-17なのです。絵とは違う場面なのです。
ἐὰνはif、δὲはbut/andなのです。
ἁμαρτήσῃ(sins)はVerb-Aorist-Subjunctive-Active-3rd Person-Singularなのです。
σέ(you)はPersonal / Possessive Pronoun-Accusive-2nd Person-Singularなのです。
ὁはtheなのです。
σου(of you)はPPro-G2Sなのです。
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ῠ̔πᾰ́γωはVerb-Present-Imperative-Active-2nd Person-Singularなのです。
ἔλεγξονはVerb-Aorist-Imperative-Active-2nd Person-Singularなのです。
αὐτόνはダイモーンの対格男性単数なのです。二つの能動態の直接目的なのです。
μεταξὺ σοῦ καὶ αὐτοῦ μόνουはbetween you and himself aloneなのです。、αὐτοῦはダイモーンの属格男性単数なのです。
ἐάνはif、σουはof youなのです。
ἀκούσῃはVerb-Aorist-Subjunctive-Active-3rd Person-Singularとされていますが、せっかくだからVerb-Future-Indicative-Middle-2nd Person-Singularとするのです。
ἐκέρδησας(you have gained)はV-AIA-2Sなのです。
τὸν ἀδελφόν σουはthe brother of youなのです。
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ἐὰνはif、δὲはbut/andなのです。
μὴはnotなのです。こちらのἀκούσῃもV-FIM-2Sとするのです。
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παράλαβε(take)はVerb-Aorist-Imperative-Active-2nd Person-Singularなのです。
μετὰ σοῦはwith youなのです。
ἕνα ἢ δύοはone or twoなのです。対格なのです。
ἐπὶ στόματοςはin [the] testimonyなのです。
δύο μαρτύρων ἢ τριῶνはtwo or threeでGenitive-Masculine-Pluralなのです。通常はこれはστόματοςにかかりますが、つぎのσταθῇの間接目的とするのです。
σταθῇ(may be strengthened)はVerb-Aorist-Subjunctive-Passive-3rd Person-Singularなのです。
πᾶν ῥῆμα(whole word)はNominative-Neuter-Singularなのです。主格なので動作主なのです。
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ἐὰνはif、δὲはbut/andなのです。
παρακούσῃはπαρα+ακούσῃ「間違って聞く」ですが、Verb-Aorist-Subjunctive-Active-3rd Person-Singularなのです。
αὐτῶνはαὐτόςの属格複数なので、間接目的なのです。
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εἰπὸνはVerb-Aorist-Imperative-Active-2nd Person-Singularなのです。
τῇ ἐκκλησίᾳ(the church)は与格女性単数なのです。
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ἐὰνはif、δὲはbut/and、καὶはandなのです。
τῆς ἐκκλησίας(the church)は属格女性単数なのです。
παρακούσῃはがいしゅつなのです。
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おなじみexistなのです。ここは一般的な選択が正しいのです。
σοι(to you) PPro-Dative-2nd Person-Singular
ὥσπερ(as) ὁ ἐθνικὸς(the pagen) καὶ ὁ τελώνης(the tax collector) Nominative-Masculine-Singular
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まとめると
結婚の話なのです。読み手は女性が想定されているのです。
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つづくマタイ18:18-20なのです。
「アーメンἀμὴν」なのです。
λέγωまで出てきたのです。大事なことを言っているのですが、ロゴスなので注意しなければならないのです。
「あなたがたに」なのです。
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一般には上の扉を選んでὅσα ἐὰνでwhateverとするのですが、スマイルは大事なのです。
ἐᾱ́νにはparticleもあるのですが、conjunctionを選ぶのです。
δήσητεはVerb-Aorist-Subjunctive-Active-2nd Person-Pluralなのです。動作主は「あなたがた」なのです。
τῆς γῆςはガイアなのです。女なのです。
三人称単数なのです。
δεδεμέναはVerb-Perfect-Participle-Middle or Passive-Nominative-Neuter-Pluralなのです。分詞がἔσταιの動作主なのです。
ἐνはinなのです。οὐρανῶはNoun-Dative-Masculine-Singularなのです。ウラノスは男なのです。
ここまでで
後半はδέωがλῡ́ωに変わっただけなのです。
まとめると
これも怪しいのです。
18:18のὅσαは直喩でしたが、こちらは事実なのです。ἐὰνはifなのです。
συμφωνήσωσιν(might agree) Verb-Aorist-Subjunctive-Active-3rd Person-Plural
シンフォニーなのです。
ὑμῶν(you) PPro-G2P / ἐπὶ τῆς γῆς(on the earth) はがいしゅつなのです。
お〇ん〇んでつながったようです。
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οὗ(that) RelPro-GNS / ἐὰν(if) Conj
αἰτήσωνται(they shall ask) Verb-Aorist-Subjunctive-Middle-3rd Person-Pluralはσυμφωνήσωσινと同じなのです。
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γενήσεταιはVerb-Future-Indicative-Middle-3rd Person-Pluralなので、babies shall be born to the two themselvesなのです。αὐτόςなのでダイモーンなのです。
μουはmyなのです。τοῦ πατρός μου(the Father of Me)は男性単数なのです。
こちらのτοῦは冠詞ではなく代名詞なのです。
いくら神様でも単数だといくつもの天にいることはできないのです。τοῦ ἐν οὐρανοῖςはsomeone among heavensなのです。天=家庭なのです。
οὖ γάρはwhere forなのです。
εἰμῐ́はがいしゅつのexistなのです。
δύο ἢ τρεῖςはtwo or threeなのです。
συνηγμένοι(gathered together)はVerb-Perfect-Participle-Middle or Passive-Nominative-Masculine-Pluralなのです。
εἰς τὸ ἐμὸν ὄνομαはinto the name of Meなのです。もちろん真の名なのです。
εἰμῐ(exist)はVerb-Present-Indicative-Active-1st Person-Singularなのです。
ἐνはinなのです。
おなじみαὐτῶνはPPro-GM3Pなのです。
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新共同訳の再掲なのです。
キリスト教ではデキ婚はOKのようなのです。マタイはτελώνιον売春宿でτελώνης買春していたのです。「異教徒」はどうもホモのことのようなのです。