『葉隠』は「武士道といふはヤル気と見付けたり」なのです
有名な箇所ですが、ここに大きなトリックがあるのです。
理がつくのは「生る」ほうなのです。ということは「死ぬ」は理にあらず、不合理、非合理なのです。また理屈の反対は行動なのです。「死ぬ方は理が付くべからず(死ぬことは正当化できない・してはいけない)」「武士道といふは理に非ずと見付けたり」「武士道といふは行ふ事と見付けたり」なのです。
「早く、死ぬ方に片付ばかり也」なのです。迷ったときは理屈ではなく一か八かで即行動するのです。明日死んでも悔いのないようにするのです。武士道は「今一番大事なことをやろう!」、みなぎるヤル気、Viva! Spark!なのです。
葉に隠れているのは「花」なのです。「忍ぶ」と「偲ぶ」が掛詞になっていて、会わず(会えず)に想っているだけなのです。西行の歌は「散らずに残り、葉に隠れている花が見えたとき、想い人に会えたような感じが湧く」ですが、『葉隠』のようなトリックがわかったときも似た心地がするのです。これはプラトンの時代からあった技法で、理由があって隠されてきたのです(今や事情が変わったのですが)。自分で気づいた人はほとんどが作家になるのですが、学者は頭が悪いので文学研究をしているくせに知っている人はまれにしかいないのです。
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さて、イチジク(無花果)の葉が隠すのも「花」なのです。「忍びし人」というとプラトニックラブな感じですが、原理はパンチラとおなじなのです。また、会わないのだから二次元でもいいのです。ゲーテ『ファウスト』もおなじことを書いており
「死ぬ事」とは「かはつむり」なのです。昇天なのです。一生忍んで思ひ死になのです。結婚してもbbaになるだけだからやめとけということでしょう。
「かはつむり」は「生る」実感、elan vitalなのです。こちらの方に「理が付く」のです。
「図に当たる」はもうおわかりですね。
武士業とはなんのことか、なぜ西行を悪しざまに言うのかもおわかりかと思います。
これは決して間違いではないのですが、本体ではないのです。三島に勝つる!彼も「技法」はご存じなんですけどねえ。
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それにしても「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とはひどい煽りなのです。煽り厨の東の横綱は山本常朝、西の横綱はニーチェなのです。ニーチェ曰く「およそ到達しうる最高の肯定の形式」である「永劫回帰Ewig Wiederkehren」は、wiederkehren=wiederkommenなので、英語だとeternal come-againなのです。たしかにこれでは「超人」でなければ体力がもたないのです。ewigは『ファウスト』の最後の「永遠にして女性的なるものDas Ewig-Weibliche」をパクっているのです。『ツァラトゥストラ』の「詩人について」でこの箇所に言及し、「詩人と女は嘘つきだ」と書いてます。
Schalthierenは貝や甲殻類のことです。ニーチェのThier動物は古い綴りですが英語のtheirとのダジャレです。新しい綴りのTierはやはり英語のtier階層とのダジャレで「古くは動物は友だちだったが、進化論のせいで人間>動物になった」という含意があります。貝の中には真珠と粘液があり、形もなんとなくイメージさせます。見つからなかった魂Seeleは英語ではspirit精なのです。これでもう疑いの余地はないのです。
こういうトリックを使う人はどういうわけか考えることがまったくおなじなのです。古くからの親友のような気がしてしかたがないのです。おそらく脳にビルトインされているのです。政治哲学の人が「ポリス的共同体」を持ち出す場合、こういう親しみが念頭にあることがたまにあるのです(そうでない場合のほうがはるかに多いが)。
腐女子のハンナ・アーレントも人間homoとホモ(セクシュアル)、ポリスpolisとお〇ん〇んpolesを軸にダジャレを展開しているのです。アーレントといえば「悪の陳腐さbanality of evil」が有名ですが、同格のofとし「陳腐さすなわち悪」という意味があります。また世間ではevilはアイヒマンのことだと思い込んでいますが、banalityの語源はbanだから「アイヒマンを処刑」「悪による処刑」の多義性があります。技法の達人のアーレントがこんな「偶然」を見逃すはずはありません。ユダヤ人のアーレントは私刑まがいの裁判をした同胞をナチスの同類だと非難しているのです。これで「隠されてきた理由」がおわかりだと思います。
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プラトンに戻って来るのです。
魂はギリシャ語でΨυχή、もともとは「息」でしたが、英語だとspiritです。「できるかぎりその魂を身体から分離開放し」というのはつまり穴の中には出さないということで、「イデア」はオ〇ペットのことです。思い死になのです。sophiaは「知恵」つまりダジャレ、「死の練習」はみなさんが励んでいるやつのことです。
古代ギリシャのプラトンと、日本の江戸時代の山本常朝はまあ兄弟みたいなアホなのです。