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親切には、「掛け捨ての親切」と「見返りの親切」の2種類があるという話を聞いたので、考察したい。
「掛け捨ての親切」とは、自分が行った親切に対して見返りを求めないこと。
「見返りの親切」とは、自分が行った親切に対して見返りを求めること。

自分は、他人に対して「掛け捨ての親切」ができると思っている。最初からできた訳ではなくて、人に見返りを求めることに疲れ、それを諦めた頃から「掛け捨ての親切」ができるようになった。こんなきっかけがなくても、第三者に対しては自然と「掛け捨ての親切」ができる人の方が多いと思う。

しかし、自分が受ける「親切」に対しては、勝手に「見返りの親切」を感じとってしまい、見返りを渡せないと申し訳なく感じてしまう。見返りを求められている訳ではないと、頭では分かっているが、自分が見返りを与えないと、自分の存在価値を感じられないのだ。

生命保険に例えると、
◯掛け捨て保険(=掛け捨ての親切)
 :その時(加入期間)のリスクに対して安心を得ることが目的
◯貯蓄型保険(=見返りの親切)
 :保証と貯蓄の側面があり、ライフイベントへの資金準備が目的

和食に例えると、
 ◯掛け捨ての親切:なすの煮浸し(出汁、さっぱり)
 ◯見返りの親切 :なすの天ぷら(油、ずっしり)

入浴に例えると、
 ◯掛け捨ての親切:シャワー(流れる)
 ◯見返りの親切 :湯船(お湯を変えないと淀む)

世の中には、「掛け捨て派」と「見返り派」があり、複合タイプも存在する。自分は9割掛け捨て派で、1割見返り派(自分限定で見返り)だと思う。

掛け捨て派は、「いま・現在」に集中している状態。こうなったらいいなという気持ちはあるが望み程度。感情はその場で「完結」している。
見返り派は、「過去・未来」に集中している(しがみついている)状態。こうなって欲しいという願望がある。感情は完結しておらず、「継続」している。

見返りを求める心理は、自分の心が過去や未来にとらわれ、不安や恐れを感じている状態ではないだろうか。過去の経験から、未来を予測し、起こるか分からないことに不安を馳せている。

自分のために備えることが見返りの親切と考えれば、その理由は自分を失いたくない=自分を守るため。自分を大切にしているとも捉えることができる。
掛け捨ての親切も見返りの親切も、それにいたるそれぞれの過程があり、まずはどちらの自分もそれでいいと思えること。その上で見返りを求めても大丈夫、求めなくても大丈夫と思えたら、今よりも少し優しい世界になれる気がする。

「掛け捨て」と「見返り」のバランスが必要だと思うが、「見返り」に寄りすぎると、少し苦しくなるような気がする。過去や未来に集中するよりも、今この瞬間に集中することを選べたら、自分を守るというか手放せるのではないだろうか。

自分を守るために「見返りの親切」を選びながら、自分に対して「掛け捨ての親切」の割合をふやせたら、自分の場合は心が軽くなれる、自由になれる気がする。

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加藤 樹木(Kato kiki)l メンタル研究家(保健師)×ネイルケア
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