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大衆本の世界史(4) ヨーロッパ編③ : 書いた人・読んだ人

 ヨーロッパ編のラストは、大衆本を書いた人と、読んだ人にスポットをあててみます。

印刷工房とジャーニーマン

 まずは、当時の印刷工房の様子から見てみましょう。
 イギリスでは18世紀、田舎の小さな家が50ポンドで買えましたが、木製の印刷機は20ポンド、活字は1セットでその10倍以上の300ポンドもしました。初期投資が高額だったので、書店や薬屋など他の業種の経営者が多角経営で始める場合が多かったようです。
 投資を回収するには、印刷機をフル回転させる必要がありました。このため、小規模な印刷業者では、事務書類やポスター、ビラなどの受注では足りず、チャップブックやバラッドの印刷販売が経営を支えていました。

1725年ロンドンの印刷工房。明りとりの大きな窓があったので「プリント・チャペル」と呼ばれた。中央がジャーニーマンだったベンジャミン・フランクリン(Public Domain:議会図書館)

 当時、印刷工房には普通2,3人程度の使用人がいましたが、不可欠だったのが渡り職人「ジャーニーマン」の印刷工です。彼らは活字の植字から印刷、製本までほとんど一人で作業を回しました。後にアメリカで新聞王となり雷の研究で名を馳せるベンジャミン・フランクリンも、一時期ロンドンでジャーニーマンとして印刷工をしていました。

 ジャーニーマンは、ヨーロッパ全体にある職人制度で、さまざまな職種があります。徒弟としての下積みを経て資格を得ると、工房を移動しながら技術を磨きました。賃金はふつうの雇い人の数倍で、現代の上級ICTエンジニアのように、引く手あまたの専門職だったようです。

無名の執筆者たち

 大衆本は著者名がないのが普通です。しかし、当時まともな文章が書ける識字層は限られていたことと、わずかに名を残した人々の出自から、そのプロフィールはある程度の想像がつきます。

 最も身近にいた執筆者が、印刷職人のジャーニーマンです。彼らは、仕事がら多くの書物に触れ、広い知識を備えた人も多かったようで、特にフランスの青本の多くは、職人によって書かれたと考えられています。
 彼らは、経営者からの注文に応じて、既存の書籍やバラッドを要約したり、抜粋したり、ときには他の大衆本を丸パクリして、数十ページの冊子を仕上げました。しかし、犯罪のニュース、時事的なバラッドや小話などは職人が書いたものが多かったようです。パクリ元不明の庶民的な俗謡なども、おそらく彼らの手になるものだと思われます。

印刷工から出版業に転じたトーマス・ゲント(1693–1778)

 名前が分かっている一人、イギリスのトーマス・ゲントは、印刷職人から出版業者になった人で、翻訳や自作の詩などをチャップブックに記名入りで発表しています。雇われ職人時代から執筆をしていたようです。

 宗教の説話や寓話は、聖職者の手になるものもありました。
 フランスの青本に名の残る、ローラン・ボルドロンはパリの修道院長ですが、劇作家でもあり、魔法やオカルトを面白おかしく風刺した寓話を書き、人気がありました。

チャップマン作家・グラハム

 イギリスのチャップブックには、わずかですが筆者を明記しているものがあります。アイルランド・スコットランドなど文化的に独立した地域を持ち紛争も多かったことから、時事的な詩やバラッドの作者が、作品をチャップブックで広めようとしたためと思われます。

ジャコバイトの反乱 と行商人ドゥーガル・グラハム  ( Wikimedia Commons)

 チャップブックに名が残る執筆者の中で、最も面白い経歴を持つのが行商人出身のドゥーガル・グラハムです。
 グラハムは、1724年頃スコットランドの貧しい家に生まれ、身体に障碍を持っていたものの一か所に定住できない性格で、若いころから行商人・チャップマンとしてスコットランドを放浪して回るようになります。

 1745年、グラハムが21歳のとき、チャールズ・エドワードが王権奪還を目指しスコットランドで蜂起します。いわゆる「ジャコバイトの反乱」です。これが彼の運命を変えます。グラハムは、反乱軍に従軍商人として参加し、転戦する中さまざまな場所や人間を見聞きします。

 反乱は鎮圧されますが、この経験が彼の創作意欲に火を付けました。1年後、グラハムは、反乱の現場体験をチャップブック「大反乱の歴史」にまとめ刊行します。正式な教育は受けていないものの、彼の生来のウィットと行商で身につけた語り口で、この本はかなり評判になります。その結果、グラハムはその後も記名で何冊も本を書くのですが、面白いことに行商もやめることなく、各地を回り続けます。
 最後には、グラスゴー市の「鐘つき係」の公務員職を、ニシン売りの物まねを披露して手に入れました。彼が亡くなったとき、多くの人が死をいたんだといい、愉快で明るく人々に愛された人だったらしいです。

ロンドンの三文文士たち

 一方、大都会では、安い書き手は簡単にスカウトできました。

 ロンドンの「グラブ・ストリート」はシティの近くにあったドブ板通りですが、辞書で引くと「三文文士」という訳が出てきます。この通りには中小の出版業者が林立していて、売れない文士や詩人たちも集まって住んでいたため、この意味が生じたといわれます。
 ロンドンで刷られたチャップブックの書き手には、この「グラブ・ストリートたち」が多かったのではないかと言われています。

グラブストリートで批評し合う三文文士たち/アレクザンダー・ウィルソン

 チャップブックに名を残す三文文士に、アレクザンダー・ウィルソンがいます。ウィルソンは、織物の行商人から詩人に転身しグラブストリートで何冊かのチャップブックを書きますが、大した名声は得られませんでした。
 しかし、彼はその後アメリカに渡り、織物業者として成功します。学校を建てるなど地域にも貢献して47歳で亡くなりますが、あちこちで女性問題を起こし、最後に名を残したのは鳥類学者/博物画家としてでした。波乱万丈の人生で、なんだか楽しそうな人です。

現代のチャップブック詩集(出典:NYC/CUNY Chapbook Festival

 話はそれますが、欧米では自費出版された現代の詩集のことも「チャップブック」と呼びます。いまではフェスティバルが開かれたり、Amazonの電子書籍でも詩集のチャップブックが売られるなど、ひとつのジャンルを形成しています。
 1960年代に、ヒッピーの詩人たちが自作の詩をシルクスクリーンで印刷して路上で売ったのが始まりともいわれますが、もしかすると、近世のチャップブックの書き手であったグラブストリートの三文詩人の伝統につながっているのかもしれません。

だれが大衆本を読んだのか?

 次に、読者側に目を転じてみましょう。

Girl reading(1850年頃:Corot)  / A young girl reading(1775:フラゴナール)

 大衆本の主な読者はもちろん庶民・民衆でしたが、残された記録を見ると、実は多様な階層の人々に読まれていたようです。大衆本は、半分以上は都市の書店や週市(マーケット)で売られており、階級に関わらずだれでも手に入れることができました。
 18世紀のフランスで、次のようなエピソードがあります。

 ”N夫人は、鈴を鳴らして侍女を呼び、ピエール・ド・プロヴァンスの話を持ってくるよう求めました。彼女はびっくりして、三度訊き返しましたが、結局…蔑みの念をこめて承知しました。…彼女は厨房へと下り、顔を赤らめつつ、その小冊子を持って来たのでした。”

「民衆本の世界」より

 この小冊子とは当時人気の青本で、美形の王子とイタリアの美しい王女の禁じられたラブストーリーです。表立っては口に出せない、下品なものとみなされていたようですが、実際は上流階級の女性にまで大衆本が読まれていたことが分かります。

 また、18世紀に活躍したイギリスの女性教育者のハンナ・モアは、
「ウィンドウなどに目を魅く形で出されている、あるいは町や村などで売り歩かれている堕落した低俗な冊子やバラッド」と激しく攻撃しています。

 しかし、知識人や聖職者たちが、大衆本を目の敵にしていたということは、それだけ多くの人が読んでいたことの証明でもあります。
 いつの時代でも、エライ人達が嫌う本は、誰が読んでも面白く魅力的なのでしょう。

子どもたちと大衆本

 大人たちにとっては、大衆本はいっときの気晴らしにすぎませんでした。
 しかし、大衆本は子どもたちに深い影響を与えていたようです。

 山下達郎が「ぼくらはアトムの子供だ」と歌ったように、私たちも幼少期に夢中になったマンガやアニメは一生心に残っています。
 当時の子どもたちが最初にドキドキ・ワクワクした本が、チャップブックや青本だったわけです。大衆本は、簡単な単語や文章で書かれているので、子どもたちにも読みやすかったようです。
 各分野で名を残した人たちも、後に大衆本への郷愁を語っています。

 「ボヴァリー夫人」の著者、フランスのギュスターヴ・フロベールは、少年時代に青本で冒険の物語をむさぼり読んだと語っています。

”いま、わたしは、六歳か七歳のときに(読んだ)、挿絵に色をつけた古い版でドーノワ夫人の童話を読み返しております…君も知っているように、騎士物語を書くことはわたしの年来の夢のひとつなのです。”

ギュスターヴ・フロベール:「民衆本の世界」より

 イギリスでは、ボズウェルという若い貴族が、ふと立ち寄った書店で子供のころ読んだチャップブックと再会して、大人買いしてしまったことを日記に記しています。

"中へ入ると「巨人殺しのジャック」 「ゴタムの七賢人」などの物語が並ぶ世界が目 の前に開けた。こうした物語には子供の頃、大いに魅せられた…。
…かつて愛好したものがみな印刷されて並んでいるので、まことに愉快でなつかしい気持ちになった。24冊の物語を買って製本してもらい、『珍本集』なるタイトルを付けた。"

「チャップ・ブック 近代イギリスの大衆文化」小林章夫 より
Reading Boy (Eastman Johnson :Wikimedia Commons)

ヨーロッパ大衆本の遺産

 ヨーロッパの大衆本は、百年以上にわたりダイジェストやパクリに終止したため、そのコンテンツの中に文化的な遺産と評価されるものはわずかしかありません。

 しかし、これまでみてきたように、大衆本が確実に足跡を残した場所は、子どもたちの意識の底でした。意識はされなくても、幼少時に触れた魔法や妖精のお話はヨーロッパが共有する物語として、また「正義、勇気、公正、知恵、努力」などの概念は世界認識の基盤として、階級を問わず大衆の中に蓄積されました。
 子どもたちが成長して作家やクリエイターとなったとき、それを土壌に、一般書籍に場所を移して新たな物語を紡ぎ出していったのです。

 また、読むという行為の楽しさを身に付けた人々の増加は、社会全体を変えていきます。彼らは、自分の子どもたちにも必ず字を教えます。このサイクルが、17〜19世紀のヨーロッパの識字率の急激な上昇の原因となったと考えるのは、あながち間違いではないと思います。
 大衆本が早くから普及したフランスの識字率は、17世紀には約20%でしたが、18世紀には約50%に急上昇しています。(ちなみに、「江戸時代の日本の識字率は世界最高!」という話は神話に過ぎないようです。)

 ただし皮肉なことに、識字率・読解力の上昇は、大衆本を終焉に導くことになります。18世紀末に大衆新聞や近代小説が激増し、読者は密度の低い大衆本のコンテンツでは満足できなくなっていたのです。

 近世ヨーロッパの大衆本は、産業革命後の大衆文化の基盤形成に大きな役割を果たしながら、成長した読者を引き止めることができず、ついに役割を終え消えていきました。

おわりに

 ヨーロッパの大衆本については、ここでいったん閉じます。書き残したことは山ほどありますので、いつかテーマごとにまとめてみたいと思います。ヨーロッパ文化はさすがに巨大です。

 次回は、中国の出版史の中でひとつの転換点となった、明清時代の大衆本についてみてみます。

(本連載の一覧)

(1)17世紀の謎・ヨーロッパと日本で大衆本が同時発生
(2)ヨーロッパ編① :人気コンテンツは?
(3)ヨーロッパ編② :「バラッド」 − 伝承からネタの宝庫に
(4) ヨーロッパ編③ : 書いた人・読んだ人

(資料)

<書籍>
英国の出版文化史―書物の庇護者たち (清水 一嘉)
民衆本の世界 17・18世紀フランスの民衆文化(ロベール・マンドルー)
チャップ・ブック―近代イギリスの大衆文化 ‎(小林 章夫) →文庫版
本を読むデモクラシー 読者大衆の出現 (宮下志朗)
イギリス絵本論 (三宅興子)
   ※ 絶版本もあります

<Web>
Shakespeare’s The Winter’s Tale
Spanish Chapbooks (Cambridge Digital Library)
ARTFLプロジェクト ※ 青本のテキストを約300冊デジタル化している

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