HECP GEIJUTZE PROGRAM Mayor Elementary〈市長小学校〉
HECP GEIJUTZE PROGRAM
Mayor Elementary〈市長小学校〉
BUILD THE REGION
〈市長小学校〉の「パブリック」と「都市」の再構築
オルタナティブな「都市」の論理化と概念化
コモディティとしての「都市」ー最も単純な物事を寄せ集めることから始めてみようじゃないか。
パブリックは単なる政治的な力関係や権力装置ではなく、それを信じる主体同士の関係の中で発生するフラタニティなネットワークなのである。日本の危機的状況の原因の根本は「家」にあって、地球規模での〝パブリックと都市の再構築〟の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりにする。「家」の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということである。そして、GEIJUTZEはいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのがGEIJUTZEだ。
HECP(人権・環境・コミュニティ・パブリックネス)はGEIJUTZEをコンテクストとしたオルタナティブな概念による、世界をターゲットとした「パブリック」と「都市」の再構築運動である。
マルクスやレーニンは革命を発明した。21世紀の私たちは、「日常」を発明し、再定義しなければならない。現代の私たちが形象しなければならないのは、戦争でも革命でも経済発展でもない、ごくありふれた「日常」の再構築なのである。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、GEIJUTZEの可能性でもある。
HECPの「パブリック」と「都市」の再構築は、国家に抗する反国家の〝共同体〟という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えて、人と地球と社会の自立と共存をテーマに持続可能な社会を目的としたGEIJUTZEアプローチである。現代社会はイスラムでもない、アメリカン・グローバリズムでもない、「国家なき紐帯」の普遍性と摂理に基づいたパブリックの実現が求められている。
そして、それは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々のパブリックであり、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象である。
世界が抱える様々な問題に通底するメッセージは、「テロや自然災害や貧困から人々の命を守る社会を創れ」ということだ。私たちはその解答として、HECP"Huencompubic"を提言する。
HECP"Huencompubic"は、行政区分や伝統的地理境界を超え
たネットワーク社会の地理学であり、オルタナティブなパブリックであり、
情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。そして、周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすること。オープンであることの倫理を包摂するものである。
均質でユークリッド幾何学的な現代アート創造都市化や金融経済効率最優先の人工都市コミュニティに対し、それを無効化し市民が都市全体を自分なりに「転用」する可能性を模索する。その都市形成において、 非ユークリッド位相幾何学のトポロジーを提起する。
パブリックは、単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であると言える。
パラダイムの変化は、政治的、あるいは経済的な意思決定の仕組み(議会や市場)によって導かれるものではない、〝新たなパラダイムが現れ、その優位性を示し、次第に現行のパラダイムに取って代わっていくものなのだ。〟人類再興のパラダイムシフトを呼び起こすためには、現代政治のその射程の「狭さ」への反動として、思想射程を拡大したインテグリティなGEIJUTZE運動を展開していく必要がある。
HECPの中核は、有権者と政治家が同意するずっと前に、将来を見据えた行動を起こさなければならないと考えている無名の人びとである。
エスタブリッシュメントに対抗するのは、持続可能性を高めようとする個性豊かな人々で、唯一の共通点は、遠い未来を見据えているということだ。
GEIJUTZEプログラム/'THE REGION’とは
HECP/Occupy 'THE REGION'ーオキュパイ・ザ・リージョン
このオルタナティブな諸局面、 新たな諸形象 、新たな諸世界
HECP"Huencompubic"は、行き過ぎた人工的な"都市化"からの転用、つまり、ディトルヌマンにある 。アッセンブリー(部品)を本来とは違った方法で使用することによって、使用者の主体性を回復しようとする試みであり、それは「転用=ずらし(ディトルヌマン)」と呼ばれる。
日本の危機的状況の原因の根本は「家」にあって、地球規模での「パブリック」と「都市」の再構築の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりとするGEIJUTZEによる運動である。
「アウトノミア」とは、自己学習ー自律・自主という意味。1970年代にイタリアを中心として,学校・工場・街頭での自治権の確立を目指して行われた社会運動。「スクウォット」とは所有者が何らかの理由で不在となり、そのまま放置された建物に人々が勝手に入り込み、占拠し、生活、管理をしている場所のことである。「スクウォット」の重要性とは、人々が集まり、自分達の文化を生み出すスペースを供給しているという役割であり、HECPの「公共的スクウォット」というのインスタレーションは、様々の実践を通じて文化創造と社会的包摂にむけた「パブリック」と「都市」の再構築を目指している。
HECP"Huencompubic"は、〝都市インフラ〟のような「大芸術」と〝家〟や〝地区〟という「小芸術」に二分しつつも、分離した両者を「GEIJUTZE全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術コモディティ」に足掛かりを求める。〈家〉セツルメントを工芸的側面ではなく、「パブリック」という都市の場として捉える。究極的には世界中の多くの〝無名な人々〟が〝自己学習〟により、自足的に家を構えることを理想とするのである。〈家〉セツルメントの強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということなのである。
新たな生命の始まりは、ニワトリでもなく卵でもない。ニワトリ以外のGEIJUTZEの卵だ。
つまり、〝ニワトリと卵〟の議論は、切り取って言えば〝ニワトリ以外の鳥が卵を産み落とし、孵化した卵は変異によってニワトリという鳥になった〟と考えるのが合理的だ。 つまり、「ニワトリ社会は、ニワトリ以外の鳥によって作られる。」良い社会を作るのは「学者」や「議員」の役割ではなく、GEIJUTZEの仕事である。GEIJUTZEとは圧倒的イノベーションの実践者であり、いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指す。良い社会がなければ良い政治はできない。民主主義の多数決主義のパラドクスは良い社会を作ることなどできないのである。
GEIJUTZEプログラム/STAND3.0とは
HECP/STAND3.0
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念。
今後、世界中で群発的に「スタンド」がわき起こる。
日本のオルタナティブ・GEIJUTZEに共感する、数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだす。
トランプの台頭は、アメリカという〝場面〟で展開される〝エスタブリッシュ〟と〝マルチチュード〟の囲碁戦であり、アメリカ大統領は「チェス」の王様ではなく、トランプも一つの「囲碁」の駒に過ぎない。
トランプは答えの出ないところで強さを発揮する。「自分にしか打てない」「打ちたい所に打つ」を信条とし、あらゆる〝場面〟を自在に打ち分け、自分が最善と思った手は愚形や悪形であっても常識に囚われずに打つ。勝負手を発見すると時間を惜しみなく使い切る。
しかし、日本は君の思いのままにはならないよ。日本人はようやく問題の核心にたどりついたんだ。僕たちの今は、君が「有名になるまえのマドンナ」であった、その時間性に存在しているんだ。
今後数十年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。「スタンド」という運動は別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。今後、世界中の紛争地区や被災地区で群発的に「スタンド」がわき起こる。世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで共有し、特異的形象を発明する。これがGEIJUTZEのシンギュラリティである。GEIJUTZEは、スタティックな、モニュメンタルな造形を想像することではなく、スタンドと化した構想的プロセスのことである。GEIJUTZEはこの文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力なのである。
国家によるイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界というイメージはもう終わりに近づいている。〝共同体〟をめぐるGEIJUTZEの〝リバーシ囲碁戦〟だ。「テロ」との戦争を言い出したときから、戦争には輪郭がなくなり、そのあおりで世界中にしだいに戦争が拡散しているという気配が出来上がっている。多くの政治家の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。
「リバーシ」の場合、駒は白と黒によって敵と味方を区別されるにすぎない。駒たちはすべて無名で、特性がなく全て平等である。これに対して「チェス」の駒は、序列化された階層構造の中で明確に役割を与えられている。その機能を変化させることはなく、最終目標のために任務を遂行する。「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「リバーシ」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「リバーシ」の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来る。
現在の〝場面〟において最も必要なのは、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。「捨て石」とは、後々の局面で自らの形勢を有利にするため、わざと相手に取らせるように打つ石のこと。さしあたって効果がなく無駄なように見えるが、将来役に立つことを予想して行う行為のことである。
私たちが予想する以上に、世界は大きな変動に向かって動き出している。私たちは、歴史的な時間を加速していかなければならない。
もはや、「学者」や「議員」の退屈な議論につきあっている時間はない。私たちの時間性は両義的世界観のオルタナティブな構成的プロセスへと移行し、新しい世界を創るのは子どもたちは、未来からの観点から、先回りして来るべきものを把握し、30年の時間の軌跡によるトポロジーの位置のGEIJUTZEを囲んでいくことが何よりも重要なのである。
『GEIJUTZE再武装』
GEIJUTZEの天才とは「不作為」の天才
貧困や紛争は人類の歴史における重大事であり、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。しかし、事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的な〈家〉セツルメントの中に現れる。つまり、人間にとっての普遍的な事柄は、それぞれの人生の個別性において顕れるということであり、GEIJUTZEは人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことが存在意義である。
私たちの言うGEIJUTZEの天才とは「不作為」の天才である。無名の人々ほど洗練された手腕を見せる芸術家はいない。そこには作為が存在しないからだ。
私たちのGEIJUTZEは、貧困や災害や紛争のように、人間にとって非常の事象が描かれる時にもっとも先鋭的な深みを示す。貧困や紛争はマクロな事象であるが、ミクロで量子的な体験を積み重ねていった時に、ぼんやりと姿が見えてくる巨大な化け物を、私たちは「クオリア」としての解像度を感じているのである。最初から、確固とした抽象的存在として、貧困や紛争があるのではない。だとすれば、貧困や紛争を描くには、内側からミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以外にはないのである。
貧困や紛争、自然災害の悲惨さについて、多くの「情報」や「知識」から「知能」を費やしてラディカルに語ることも時には必要であろう。しかし、そのようなアカデミーはGEIJUTZEなどとは呼ばない。アカデミーは、生の実感、生の具体から浮遊することで、道を誤らせている。
そもそも、人類にとって、真理とは何か、善とは何か、美とは何かということを、それぞれの人生の具体を離れた抽象的な形で議論することに、どれほどの意味があるのだろう。
アカデミーは、個々の具体を離れた、抽象性、普遍性を獲得してこそ、初めて意味を持つと多くの人が暗黙のうちに前提にして来たが、そもそも、具体の実感と切り離せるものではない。どのように普遍的なものとして構想されている「概念」も、個々の人間の猥雑で混沌に満ちた生の具体とどのように交錯するかという問題を離れては、成り立たないのである。
GEIJUTZEとは自分自身に内在する「正義」を発見する競技であるとも言える。真理や美、善や悪という概念は、そのような普遍が個々人の生の具体とどのように関わって立ち上がってくるのかということを含めて、初めてその成り立ちが完結する。HECPの〈家〉セツルメントは、オーバーレイでの形象による、具体と抽象の奇妙な「混淆物」であるかもしれない。概念の塔に籠もることで、人々は具体からの安全圏に自分を囲い込むことができる。しかし、具体に自分を投企することなしに、アカデミーが抽象的で形而上学的であるのをもって良しとするような、どんな抽象概念も切実さを持ち得ないということを徹底して省察するならば、多くのアカデミーが前提としている具体から遊離した形で立てられる「普遍性」の持ついかがわしさが、逆照射されるはずだ。
人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならない。マルクスやレーニンは革命を発明した。二十一世紀の私たちは、日常を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、GEIJUTZEの可能性でもあるのだ。