「勇敢な高齢者」ー難民といっしょにオルタナティブな高齢者を作る
難民といっしょにオルタナティブな高齢者を作る
オルタナティブな「高齢者」=hecpistは、
新たなGEIJUTZEの起算点。
「高齢者」の核心的な存在意義とは、「果実」の表象ではなく、「種」のそれです。果実は生命の終末を迎えても、その種は未来の社会で突然に芽を出し、大きく変異します。重要なのは子供たちの未来であり、女性たちの未来です。その将来世代のための轍(わだち)を作るのが「高齢者」の使命なのです。
hecpistがやることはただ一つ、若い世代のために新たな「定常」を形象することです。「高齢者」は、人類の範となり、将来世代のためにテールライトを灯すべき。それが、高齢者にとってメソッド演劇による終幕の見せ場なのです。でもそんな難しい話じゃない、それは高齢者たちにとっての「表現の自由」でもあり、ストレスフリーの日常でもあるのです。僕たち「高齢者」は、決して何も恐れるものはありません、何故なら早かれ遅かれ、もうすぐこの世とはお別れするのですから。僕たち高齢者は、企業にも社会にもそして家族であっても、何のしがらみもありません。誰も私たちのことなど気にしていない。だからこそ、私たち高齢者は、未来遠点の社会や子どもたちのために、美しい「嘘」をつき、美しい「差別」をし、美しい「暴力」を振るいます。それが僕たちの「自由」であり、誰にも止めることはできません。そして、僕たちはそれをGEIJUTZEと呼
独りであること、未熟であること、
これが私の『六十歳の原点』
自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、自分で学習し、歌をうたい、下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る『高齢者』になりたい。
齢者」は、スポーツ、レクリエーション、リゾートなどの娯楽に代わり、未来の子どもたちのための理想の「社会」の構築というGEIJUTZEを推進していけば、「高齢者」自身にとっても、健康維持に繋がり、精神的な健全さが生まれることにもなるはずです。
「高齢者」の60歳から70歳は、独人期と呼ばれる人生の集大成であり、人生で最も輝きを放つ〝プラチナテンイヤー〟なのです。人生90年時代を迎え、定年リタイア後の人生は決して余りものなどではなく、「60歳」は新しい人生の扉を開く「起算点」にしなければなりません。会社や子育てのトンネルから解放され、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、この独人期にさしかかる人々です。「65歳」を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く決断しよう。「高齢者」になったからこそ、子供の時の夢に向き合うことができるのです。
「高齢者」は(智慧ある者)。人類社会の鑑で世界を変える主体
であるべき。
かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、「高齢者」は無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族のために大きな貢献をする存在であったからです。
「高齢者」には若者世代にはない、経験・知識・技能から培った「長年のあれ」という解析化できない独特のパワーを備え持っています。あれとは物事を行う上で、抑えておくべき大事な点のこと。この場合、コツ ・ 極意 ・ ポイント ・ 要領 ・ 秘訣 ・ 勘どころなどの物事の大事な部分の概念ことであり、言葉化できない場合におけるGEIJUTZE表現です。
かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていました。「高齢者」が存在することには意義があったし、「高齢者」には掛け替えのない価値があった。だが、それらは現代社会においてはすっかり失われつつあります。価値を見出されず、お荷物扱いされがちな「高齢者」が巷に溢れかえっている。「高齢者」は、今までの 自分らの甘えに気づき、未だ何ものでもない自分に気づいて、新たな何者かへ自分を作り上げていく、気の長い歩みへと踏み出していく。いわば、これまで自らが上げ底されていたことに気づき、いったんぺちゃんこになって、本当の地面に足をつけるところからじっくり再出発しなければならないのです。
しかし、日本では、次の社会へのランディングを拒み「権威」や「利権」にしがみついて、現役社会にぶら下がっている醜悪な「老人」ばかりを見せられています。「高齢者」にとって人生という物語においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」のはずです。最後演劇が素晴らしい「芸術」なら、過去の選択はすべて正しかったことになります。
若い世代には、仕事や恋愛や結婚、そして、家庭の形成など、人生でやることがいっぱいです。「高齢者」の役割は現役世代が国家の基幹となる科学・技術や経済生産活動に集中できるようにサポートし、30代40代の若い世代が「政治」などに興味を持たなくてもいいように、理想の「社会」の構築を分担すべきなのです。そして、「高齢者」その「政治」活動においては決して「紙幣」を目的としない。つまり、本来の「政治」とはボランタリーで行うべきGEIJUTZEなのである。
「高齢化問題」の解決は高齢者が働くことによってしか、他に解決法はない。
「下流老人」などの「学者」の言葉遊びにより、「高齢者」のイメージが一人歩きし始めました。「高齢者」が恐いのは「「死」でも、貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐ろしいのは、だれからも「尊敬」されなくなることなのです。「高齢者問題」の解決は、社会や時代に合わせた自立支援も重要ですが、 何よりも高齢者自身が自らの手で、国や地域社会に積極的貢献することによる「公共性概念」としての機能を目指し、高齢者は社会での生産に関与し、再び尊敬される存在となる、オルタナティブな社会スキームを構築することが重要になってきます。
社会の紐帯は「生産」を通じて生まれる。高齢者は「生産」に携わり、他人の役に立ち、人類の一部としての自覚を持つことで人生に光を見出さねばなりません。すなわち「生産」とは、人が価値ある人生を送るために必須の手段であり、またそれ自体「目的」でもあるものなのです。社会の紐帯は「生産」を通じて生まれます。人間は「生産」を通じてしか付き合えません。やらねばならぬ仕事が無数にあるからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、「高齢者」にも、誰にでも居場所が空けられています。
良い社会を再構築するのは、
社会の周縁の無名のhecpistたちの使命。
日本社会が抱えるさまざまな問題のひとつとして「少子高齢化」が叫ばれて久しい。日本はいまや高齢化社会のはるか先をいく「超高齢化社会」に突入しています。現在、日本の高齢者(65歳以上)人口は2700万人に達し、4人で1人の高齢者を支えています。25年後に全体の約3分の1が高齢者になると予測されているほどの、世界一の"高齢者大国"なのです。この世代の人たちを、年金や福祉を「支えられる側」から「支える側」へと変えていかなければ、超高齢社会の持続は困難になります。豊かな知識と技術、人のネットワークをもつ「高齢者」は莫大な社会資源なのです。
高齢者にとって政治家がもっとも
合理的な生産活動
「高齢者」の起業においては、既存のマーケットと競合しないオルタナティブな市場での起業による解決が合理的です。高齢者の定年延長などの政策は現役世代へ新たな負担を強いることになり、社会に〝パラダイムシフト〟を呼び起こし、大きな変革を実現することは、現実社会や組織のなかで様々な常識や社会的責任などのしがらみのある現役世代では困難です。無名の〝高齢者〟が現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し社会を変革する主役になり、高齢者の〝イノベーション〟によって、国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させることができます。
この国の60歳以上の有権者は選挙権を放棄し、その引き換えに世襲及び60歳以下の有権者は被選挙権を放棄する。これで若者世代の意思が、高齢者によって実現するための「仕組み」が生まれることになります。 憲法の改正などは必要ありません。それぞれ60歳以上も以下も、自らの権利を放棄すればいいだけの話なのです。予算も議論の必要もない、この国の将来世代のために「放棄」という勇敢な選択するだけです。実にシンプルです。そのためには、60歳超えて、のこのこ投票に行く人間、60歳以下の現役世代で政治家などにうつつを抜かす人間、そして、それを家業とする恥知らずな人間を徹底的に疎外し、社会から排除させる国民運動を起こすことが重要になってきます。もちろん、SNSにおいて誹謗中傷する必要もないし、武力闘争もデモも行う必要もない。騒がない、争わない、衝突しない。現在の選挙制度を静かに無効化させるだけです。今は奇妙に見えるこの小さな蝶の羽ばたきは、いずれこの国で甚大なハリケーンを発生させることになります。
公共性概念としての高齢者ー
高齢者はこのまま社会の「悪者」にされていて
いいのか
「高齢者問題」の解決は、社会や時代に合わせた自立支援も重要ですが、何よりも高齢者自身が自らの手で、国や地域社会に積極的貢献することによる「公共性概念」としての機能を果たし、高齢者が再び尊敬されるオルタナティブな社会スキームを構築することが何よりも重要です。
高齢者は「支えられる側」から「支える側」へ。人生という「演劇」においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」なのです。
人間は60年も生きれれば丸儲けだ、だったらいよいよ、僕たち「高齢者」の出番じゃないのか?高齢者とはジャニーズや松本人志というトンネルを潜り抜けた人間のことである。60歳にもなって、ジャニーズや松本人志を潜り抜けることが出来ない高齢者は、若い世代から「侮蔑」され、「差別」され「迫害」されることになります。決して隠蔽することはできません。「松」、 「ジャ」などアーカイブタトゥーが刻印されることになり、このような高齢者には、子どもたちを近づけても、触れさせてもいけません。それは性加害や性的虐待を起こさないためです。
僕たち「高齢者」は、普段はどうしようもなく優柔不断で、役にも立たず、臆病であってもかまわない。だが、いざという時は必ず立ち上がらなければいけないんだ。それが僕たちの「演劇」の真骨頂、いつの時代も「演劇」の主人公は「高齢者」なのです。人間がほんとうに正しいことができるのは、自らの命の区切りが見えた時しかありません。若者や現役世代の人間には家族や子供など守らなければならないものがあります。hecpistとは、世界をそして日本を愛してやまない人間で、今でも様々な活動を通して利己を捨て世界の子供たちのために尽力しています。もちろん、ジャニーズや松本人志のファンなど一人もいません。この国の文化や歴史、政治や経済にも明るく、何よりこれからのこの国のことを真剣に考えています。これからの国の事を考えているということは、若い人達がこれから生きる時代をより良いものにしてあげたいと願っているということなのです。そんな「高齢者」は若者からも当然尊敬されます。
みんな等しく歳を重ねていく。時間だけが人類に与えられた唯一の平等です。あなたもいつか必ず65歳になる。そして、65歳の芸術期を迎えて、こんな「高齢者」になりたいと思ったら、いつでも女人高野ー九度山へ。僕たちの〈家〉セツルメントに訪ねてきてください。われわれの〈家〉はいつでもあなたを歓迎します。