ダイアゴナルによる道州制。 「市民発議」イニシアチブによる、「紀州」というオルタナティブな道州
4日目
ソーシャル・パブリック・インタラクティブ
「道州」は、国家領域と市民領域の接合点へ
ダイアゴナルによる道州制。「紀州」というオルタナティブな道州ー
市民が直接パブリックを形成する時代がやってきた。
今、議論すべきは、「9月入学制」ではなく、ポスト・コロナ時代における広域連合体「道州制」である。「市民」が直接発議する。イニシアチブー無名の市民が「法」と「税」を通さず、直接「国家」をデザインする。
そもそも、日本の都道府県や市町村は「地方自治体」ではなく「地方公共団体」なのである。
日本国憲法は、第8章の第92条から第95条で「地方自治」について定めている。ただし、第92条には「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と書いてある。つまり、都道府県や市町村は「地方公共団体」(地方における行政サービスを行なうことを国から認められた団体)であって、「地方自治体」(自治の権能を持つ団体)ではないのである。
そして、地方自治体の議会というものは“無用の長物”である。ところが、機能も権限も定かではない日本の地方議員は高給だ。都道府県議や大都市の市議の場合、報酬と政務活動費の合計が年間2000万円前後に達しているところも少なくなく、ポストコロナ以降のオルタナティブな社会においては、市民が直接発議を行うことになり、議員という職業が存在する意味は何もない。
大阪は兵庫ではなく和歌山と、高野山を象徴ランドマークとする、広域連合体「紀州」を目指すべきである。
僕たちは、これまで、ダイアゴナル分割による道州としては、大阪は京都・奈良を切り離し、「阪神州」として、神戸ー大阪ー堺ー関空の湾岸を基軸とした、一大経済圏として機能させる。また、京都・奈良は滋賀、福井までの京滋ラインラインを中心として、都を意味する「近畿州」として、大阪・兵庫の「阪神州」と分離することが望ましいとしてきた。
「地震」「豪雨」が日常化する日本国土における「共同体」のあり方、つまり、理想の「道州制」とは活断層に沿った、日本を斜め45度を基準にした、「ダイアゴナル分割」が望ましい。
では、この場合のゲマインシャフト基礎自治体の「概念」とは一体何か?
学校・病院・公共施設のハコモノによる、地域再分割ではなく、少なくとも、今後、1000年先を見据えた「公共圏」パブリック・スフィアの大きな議論を展開すべきである。
何より問題なのは、日本の官僚や議員は「基礎自治体」の概念が確立されていない。また、地方分権や道州制議論において、地震やハリケーン、豪雨災害の視点が全くない。つまり、こうした議論でもっとも重要なのは河川や活断層、海岸線、原発の位置である。
だが、コロナウイルスの出現で状況は一変することになる。
結論から言えば、大阪は兵庫ではなく、
高野山を象徴ランドマークとする和歌山と、広域連合体「紀州」を目指すべきである。
この大阪・和歌山による広域連合体としての紀州における主題は二つある。一つは、新型コロナウイルスの出現による、都市機能の再構築である。都市は、感染症や災害に対しては弱い。都市一極集中による成長モデルは完全に崩壊した。地方に都市機能を分散させて、地方創生を加速させるべきであり、地方公共団体による、広域連合体、つまり、見なし「道州制」を加速すべきなのである。5Gが整備されれば、遠隔でもリアルと変わらないような会議が出来るし、学校に集まって画一的な授業を受ける必要もない。
そして、もう一つは南海トラフである。
今後30年以内の南海トラフ地震の発生確率は80%!マグニチュード(M)9.1規模の南海トラフ地震が発生した場合の被害想定は、大阪府内の死者は最大13万3,891人となる。
何より懸念されるのが南海トラフ地震だ。フィリピンプレートが本島の下部に滑り込んでできる歪みが原因で起きる南海トラフ地震は想定される規模が違う。マグニチュードは最大9・1。
13年に大阪府が公表した南海トラフ地震の浸水想定では、西淀川の淀川河口で最大津波水位は5・2m、夢洲のある此花区や港区では5mなど被害は甚大だ。最大の繁華街、大阪・梅田もどっぷり水に浸かる。
そもそも事前の津波予想や浸水予想が全くアテにならないのは東日本大震災を振り返ればすぐわかることだ。大きな津波に耐えられるはずだった大防潮堤もいともたやすく崩壊した。
人類は破滅的な出来事が起きて初めて ようやく目覚め グローバルな統制のための 真のシステム作りへと動き出すものであり 我々は破滅的な出来事が 起きるまでは動けないが 大惨事が起きたときに 迅速に対応できるような 基盤作りを進めなければならない。
これからやるべきことは、大阪都構想という小論ではなく、紀州というオルタナティブな道州制の議論であり、IR,万博、カジノによる夢洲開発はポストコロナ社会そして、南海トラフ地震を念頭においた再開発プロジェクトにすべきなのである。
僕たちは、社会を変革するのに、いちいち、政府を通したり、法を通す必要などない。アドボカシーもロビー活動も没交渉である。そもそも「代議制」という時代遅れの電話交換手のようなシステムを踏襲しなくても、「発議」イニシアチブはいつでも、どこでも、誰でも簡単に出来るわけである。
確かに待機児童、子育てや教育環境について、地域の活性化や財政、ゴミの収集、エコやリサイクルなど環境問題など、僕たちの身近にあるこれらのテーマは、ひとつひとつは小さいな問題ですが、とても大切な問題である。
こうした小さな問題こそ、議員や行政に頑張っていただくことが極めて合理的である。僕たち市民には真剣に議論しなければならない、もっと大きなテーマビッグピクチャーが山積している。
つまり、未来と世界が私たちに与えられた、僕たちにしか解決できない壮大なテーマなのだ。
地球の裏側の出来事と私たちの日常生活が結びついていることを、今ほど鮮烈に実感できる時代はない。もはや、投票に行くだけでは理想的な社会を築くことは出来ないということは、このコロナ危機を通していやというほどわかった。そもそも、スマホやタブレットがあれば、世界中の人々と直接コミュケーションが取れる時代に、何が悲しくて時代錯誤の「電話交換手」を使ってコミュケーションを取る必要があるのか全く意味がわからない。
もちろん、僕たちは無政府主義を標榜するテロや暴力などのラディカルな活動は行わない。私たちの提唱するイニシアチブは「法」や「税」、もちろん「暴力」などを通すことはない。それは通す必要がないからである。オルタナティブな「革命」とは、メタファー「ずらし=転用」が一斉に始まるときなのである。スクラップ・アンド・ビルド、いわゆる破壊と再構築ではなく、リバース・アッサンブルつまり、許容と転用による脱構築と再構築を意味する。一人で目的に直接アプローチすることが合理的で何よりの近道なのである。
だが、僕たちの活動は、決して争わない、衝突しない、対決しない。むしろ、できれば「議員」や「政府」とは協働することが望ましいと思っているが、非建設的議論に、労力を割くよりも、僕たちが直接問題解決に携わっていく方が、合理的だと言える。予算を背景にした施策は一見突破力があるが政治的制度的なパラダイムシフトには限界がある。
粘り強く、いかなる妨害や弾圧に対しても決して屈せずにルーティーンの表現を以って、何世代を超えた変革の必要性を主張し続けることである。
このプログラムでは、自分の未来像は「人には奇妙かもしれない」が、一人ひとりが自分なりの夢を持ちそれを渇望することが変革の鍵とし、新型コロナウイルス以降の人類社会において、現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し世界を変革する主役になる。〝イノベーション〟により国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させることができる。
パラダイムの変化は、決して「議会」や「市場」などの政治的、あるいは経済的な意思決定の仕組みによって導かれるものではなく、新たなパラダイムが現れ、その優位性を示し、次第に現行のパラダイムに取って代わっていくものである。
突拍子もない発想で世界を変える。しかし、突拍子も無いことは、実は突拍子もなく起こることはない。近い将来、世界各地の相互に無関係なエリアで群発的に発生する紛争や災害に対してパブリックネスに同じ行動を取るようになります。 今までのように問題の解決を国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは何も進まない、一人一人が動くしかなく、「スタンドー立ち上がれ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージなのである。
ポストコロナ以降の社会では、人々の心の中に地球規模の意識が出現する。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、その新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生していく。別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものなのである。
「家」の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができる。
「家」はいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが「家」なんだ。
コミュニティ共同体、パブリック公共圏としての「家」の内側に芸術が実存しなければ、学者や議員のランガージュ言語表現は単なるシーニュ豆知識にすぎないんだ。
「家」は単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。
家は単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。