〈市長小学校〉2055年は高齢者のシンギュラリティー
難民といっしょにオルタナティブな高齢者=hecpistを作る
2025年は2055年の予兆であった
そして、2055年は重要な点において2025年の続編であった。
〈高齢者の絶対零度〉
オルタナティブな「高齢者」=hecpistは、人類社会の鑑、世界を変える主体であり、「高齢者」の核心的な存在意義とは、「果実」の表象ではなく、「種」のそれである。
未来社会を創造するオルタナティブな主体は、既存の議会でも政党でもない、世界中に点在するセツルメント〈家〉と地区で展開されるランツゲマインデであり、それを実現することができるのは現役を退いたオルタナティブな「高齢者」たち=hecpistである。ELDERSは利己的な態度を捨て、自分と他者とを隔てる考えを捨てる真理把持を持った「智慧ある者」として、「人類の鑑」である。2055年hecpistは人類社会の鑑、世界を変える主体となり、世界規模でシンギュラリティを起こすことになる。
これは確かに壮大な夢物語かもしれない。しかし、ロマンとはそういうものである。重要なのは、時代を「解析」することでも「予測」することでもない、自分の力で「形象」することだ。
高齢者にとって最後がGEIJUTZEなら、過去の選択はすべて正しかったことになる。人生という物語においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」であり、日本の政治は「高齢者」から「若者」への世代交代ではなく、むしろhecpistへの交代が望まれる。なぜなら、若い世代には、仕事や恋愛や結婚、そして、幸せな家庭の形象など、人生でやることがいっぱいだ。hecpistの役割は現役世代が国家の基幹である、科学・技術や経済活動に集中できるようにサポートファシリテーションし、現役世代が「政治」などに興味を持たなくてもいい、理想の「社会」の構築を分担すべきである。ELDERSの政治活動においては「紙幣」を目的とすることなどあってはならない。そもそも「政治」とはボランタリーで行うべきGEIJUTZEなのである。
私たちは次の社会へのランディングを拒み「権威」や「利権」にしがみついて、現役社会にぶら下がっている醜悪な「老人」ばかりを見せられている。かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていた。老人が存在することには意義があったし、「高齢者」には掛け替えのない価値があった。だが、それらは現代社会においてはすっかり失われつつある。価値を見出されず、お荷物扱いされがちな「老人」が巷に溢れかえっているが、今後、世界中の紛争地区・被災地区の復興で、群発的にhecpistのシンギュラリティがわき起こり、高齢者は世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで、意識を共有し社会の特異的形象を発明することになる。
ELDERSは人類社会の
リソーシズ(智慧ある者)であるべき
日本社会が抱えるさまざまな問題のひとつとして「少子高齢化」が叫ばれて久しい。日本はいまや高齢化社会のはるか先をいく「超高齢化社会」に突入している。現在、日本の高齢者(65歳以上)人口は2700万人に達し、4人で1人の高齢者を支えている。25年後に全体の約3分の1が高齢者になると予測されているほどの、世界一の“高齢者大国”なのである。この世代の人たちを、年金や福祉を「支えられる側」から「支える側」へと変えていかなければ、超高齢社会の持続は困難になる。豊かな知識と技術、人のネットワークをもつ高齢者は莫大な社会資源なのだ。また、大多数の高齢者は多少の助けがあれば、日常生活や仕事も続けられる。
高齢者が恐いのは「貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐いのは「尊敬」されなくなることだ。人は一般に年を取るにつれ、保守的になり、変化を嫌い、安楽に過ごしたいという気持ちが強くなる。それを最も排除しなければならないということである。日本を見渡せば、多くの高齢者がすることもなく毎日のように病院に時間つぶしに通っている現実もあり、そのことが医療費の拡大となり、国の予算を圧迫している。スポーツ、レクリエーション、リゾートトという「娯楽」に代わり、未来の子どもたちのための「未来社会」の構築という生産活動に従事すれば、「高齢者」自身にとっても、健康維持に繋がり、精神的な健全さが生まれることにもなる。
「高齢者」の60歳から70歳は独人期と呼ばれる人生の集大成であり、人生で最も輝きを放つ〝プラチナテンイヤー〟なのである。人生90年時代を迎え、定年リタイア後の人生は決して余りものなどではなく、「60歳」は新しい人生の扉を開く「起算点」にしなければならない。会社や子育てのトンネルから解放され、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、この独人期にさしかかる人々だ。「60歳」を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く決断するのである。既威をシーヴ(ふるい)し、すべての権威の断捨離を遂行することによりあらゆる可能性を排除しないことにもつながる。新しい人生を手に入れることができる。「60歳」になったからこそ、子供の時の夢に向き合うことができるのだ。
「高齢者」の起業においては、既存のマーケットと競合しないオルタナティブな市場での起業による解決が合理的である。高齢者の定年延長などの政策は現役世代へ新たな負担を強いることになり、社会に〝パラダイムシフト〟を呼び起こし、大きな変革を実現することは、現実社会や組織のなかで様々な常識や社会的責任などのしがらみのある現役世代では困難である。普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で決断することできるのは「高齢者」しかいない。高齢化問題の解決に向けての構成的プロセスは極めてシンプルである。無名の〝高齢者〟が現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し社会を変革する主役になる。高齢者の〝イノベーション〟により国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させることができるのである。2055年、「シンギュラリティ」に到達するのは「AI」ではなく、「高齢者」である。高齢者GEIJUTZEの「シンギュラリティ」のそれは、すでに「種」が存在している。もし、その予測や解析を誤るとしたら2055年よりずっと早くなるということだけだ。
AGE 65「世界を変える」ー
高齢者によるシンギュラリティ。
「独りであること、未熟であること、これが私の『六十歳の原点』である」
自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、自分で学習し、歌をうたい、下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る『高齢者』になりたい。
AgE65は、65歳ー第3住期/GEIJUTZE期のこと。hecpistは、新たなGEIJUTZEの起算点。そして、人類社会の理想の鑑にならんとする。hecpistの核心的な存在意義とは、「果実」の表象ではなく、「種」のそれである。その生命の終末を迎えても、未来の社会で突然に芽を出し、大きく変異する。「人権」という文脈においては、死生は連続的行為概念である。もうこれ以上、死について、目を逸らすことはできない。すでにトリアージ命の選別が行われている。一人一人の人間の決死の覚悟が必要であり、まずはhecpistが先鞭をつけるべきである。何よりも重要なのは子供たちの未来であり、女性たちの未来だ。将来世代のための轍(わだち)を作るのが、ELDERSの仕事である。現役世代の人間に、これ以上の負荷をかけるわけにいかない。hecpistがやることはただ一つ、若い世代のために新たな「定常」を形象することである。hecpistは、人類の範となり、将来世代のためにテールライトを灯すべき。そして、私たちはそれをGEIJUTZEと呼んでいる。
ELDERSの最大の有用性とは、疫病・テロ・紛争・自然災害などの有事、つまり、「いざという時」だ。
最後くらい少しカッコつけてみようじゃないか。かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、無条件に敬われる存在というよりも、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていた。老人が存在することには意義があったし、「高齢者」にはかけがえのない価値があった。だが、それらは現代社会においてはすっかり失われつつある。希少にして代え難い価値を持った存在としての「高齢者」は失われてしまい、今では価値を見出されず、お荷物扱いされがちな「老人」が巷に溢れかえっている。人生という「演劇」においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」なのである。
「高齢者」は、普段はどうしようもなく優柔不断で、役にも立たず、臆病であってもかまわない。だが、いざという時は必ず立ち上がらなければいけない。それが高齢者の「演劇」の真骨頂、いつの時代も「演劇」の主人公は「高齢者」だ。何故なら、人間がほんとうに正しいことができるのは、自らの命の区切りが見えた時しかない。若者や現役世代の人間には家族や子供など守らなければならないものがある。だが、「高齢者」は60年も生きれれば丸儲けだ、だったらいよいよ、「高齢者」の出番じゃないのか?
例え今までどんなつまらない人生をおくってきてたとしても、最後の「演劇」が素晴らしかったら、過去の選択は全て間違っていなかったことになる。逆に、どんなに素晴らしい人生をおくってきても最後の「演劇」がつまらないものであれば、過去の選択は全て間違っていたことになる。
この国の「高齢者」は、
一体何年生きれば気が済むんだろうか?
人間は他の被造物がもつ『ほかのもののためにどれだけ役に立つか』と いう『有用性』による価値ではなく、「それ自体」で価値をもつ、つまりは他のものとの比較不能な価値をもつ「比較を絶する無条件的価値」の存在として捉えられている。そして、これが『尊厳』の基本的な意味であるとされている。命の順序についての議論を展開し、「人権」の思想核に接近することが出来るのは「高齢者」でしか出来ない。「人権」概念のキーポイント因子は、「権利」ではなく、「尊厳」である。この国の「偽物の人権」に惑わされてはいけない。もちろん、「高齢者」が健康で長生きすることは決して悪いことではない。だが、「高齢者」が社会から、家族から、等しく長生きすることを望まれていると思っているのであれば、それは少し違う。コロナ禍において、健康のために運動は欠かせないと言っては、地元スーパーを徘徊、ストレス発散のためだと言っては、カラオケ三昧、笑いは免疫を高めると言っては、寄席通い、モリモリ食べてパワーをつけなくてはと言っては、焼肉食べ放題。
〈市長小学校〉では、こんな「高齢者」とは、一切没交渉である。こんな「高齢者」を若者たちは一体どのように見ているのだろう。高齢者が恐いのは「貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐いのは「尊敬」されなくなることだ。hecpistとは、世界をそして日本を愛してやまない人間で、今でも様々な活動を通して利己を捨て世界の子供たちのために尽力している。この国の文化や歴史、政治や経済にも明るく、何よりこれからのこの国のことを真剣に考えている。これからの国の事を考えているということは、若い人達がこれから生きる時代をより良いものにしてあげたいと願っているということなのである。 そんなhecpistは若者からも当然尊敬される。
みんな等しく歳を重ねていく。時間だけが人類に与えられた唯一の平等である。あなたもいつか必ず65歳になる。そして、65歳のGEIJUTZE期を迎えるために、もしあなたがそんなhecpistになりたいと思ったら、いつでも私たちのセツルメント〈家〉に訪ねてきて欲しい。