「畜食」から「環食」へ。 人類とウイルスとの戦いは〝食〟をめぐる壮大なパラダイムシフト



ヒトの肉体は、どこから来なくて、どこへ行かないのか。


ヒトの命とは一体誰のものであり、誰が、誰のために守るのべきものなのか。このウイルスとの戦いには、人間が当たり前のように、自分のものだと思っている、このヒト肉体は、一体誰のものなのかという壮大な命題が包摂されている。

『彼は本当の肉体の存在する場所に連れて行かれる。そこはコンピュータ人間を栽培し、人間の熱を核融合させ電力に変換している。ヒトは電力をコンピュータに提供する電池となっていて、そのことを知らずに眠り続けて一生を終える。ヒトが住んでいると思っている世界は実は仮想世界というプログラムの中にある。ヒトが現実と考えているのは脳による電気信号が作り上げた虚像である。その仮想世界がマトリックスである。                                   

このことに目覚めてた人々が少数いて人類の自由のために抵抗運動を続けている。この人々が信じているのが救世主が現れるという預言者の言い伝えだ。エージェントは「マトリックスは理想郷だ。環境と共存できない人類は恐竜のように滅ぶ。人類はウイルスだ。われわれは治療薬だ」という。』

現代畜食は、「味覚も嗅覚も無い世界」でステーキを味わい、
ワインの香りを楽しんでいる。

健康を害してまで「おいしいもの」を欲してしまう人間。なぜ「生きるため」だけでなく「おいしさを楽しむ」ために食べたくなる“畜食”の生き物になってしまったのか?

前頭眼窩野は前頭葉の腹側面に位置しており、この脳部位には視覚、聴覚、体性感覚とともに味覚、嗅覚情報も収斂している。扁桃体を中心とする辺縁系とも密接な結びつきがある。

この脳部位の進化なのか損傷かは不明だが、情動反応と動機づけ行動に異常を起こしている。
つまり、自分の舌や嗅覚で直接感じるおいしさよりも、人から与えられる情報で感じるおいしさの方を強く感じる。

「食」は時として非道徳的なものとみなされうる。僕たちは自らの食のために、動物を屠殺し、遺伝子を改造し、生態系をも傷つける。このような営みを自然のものとみなして擁護する立場もあれば、食にともなう「悪」を根絶させるためには、僕たち自身が絶滅するしかないとする立場もある。

僕たちのやっていることと、ウイルスとやってることと何が違うのか?
そもそも、僕たちは牛や豚を殺していいと、誰にも許しをもらっていない。

だが、この国では、牛や豚を殺して食べるということは、決して犯罪ではない。つまり、何を殺して、何を食べるのも自由なのである。重要なのは、僕たちが生きる世界と、ステーキにされる牛や豚たちの世界は「地続き」だということである。

そもそもエコロジー生態系とはそうことであり、エンバイロメント環境もそういう概念を含んだものなのである。

日本の環境政策の基本である環境基本法で「環境」という言葉は定義されていない。

この国の環境大臣は、我が妻の「妊娠」を案じ、もう一方で他人や他の生き物の「妊娠」に対しては、全くの無頓着無関心で、「毎日でもステーキを食べたい」と妄言する、それはエンバイロメント(環境)という概念を全く理解していないということである。

地球環境問題においては、こうした人間の自己中心という論点からの逃避こそが罪の本質である。

「環境」は、文字通り、ある主体を円環のように取り囲んでいる境界までの場の状況を意味している。しかし、本来の英語の場合は、主体を取り巻く周囲の状況、事物、状態や事状「すべて」をその主体に対するエンバイロメントというのである。

ステーキは、今、流行りだぞ、ほら、ジューシィだろ、旨そうだろ、舌が感じる栄養成分よりも、“イメージ”によって過剰な食欲をかき立てられ、「おいしいぞ、食べろ」と食欲を促す能力を発達させてきた。

このジューシィなステーキこそ、バーチャル世界の「匂いも味覚も無い世界」マトリックスの世界観である。

牛や豚たちの「ひとり、ひとり」に共感していたら、何も出来ないのは正論である。だからといって、牛や豚たちの顔も見ないで、傷つけ、殺していいということにはならない。
生き物の命を頂く時には、相手の目を見て、殺される瞬間の声を聞き、自らの手で捌く(さばく)覚悟を持つべきである。

「食」というのは残酷な行為である。この国の人間たちはそうした本質から逃れる。これは決して「経済」の問題ではない、僕たちの「美意識」の問題なのである。

僕たちはもう少し抗ってみようと思う、
争って見ようと思ってる。

そして、自らが抱える内なる「罪」に対して、徹底的に贖うこと、
これこそが、僕たちの考える「環食」の概念である。


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