「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。❻「ウイルスと上手くつきあっていく」 は、「共生」の概念を持たない、社会を滅ぼす トリガー・フレーズ
「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。
❻「ウイルスと上手くつきあっていく」
は、「共生」の概念を持たない、社会を滅ぼすトリガー・フレーズ
人々は「共生」という言葉に心惹かれ、好意的な印象を抱いている。異なる主体がお互いを貪りあうのではなく、思いやりを持って共存するという、調和的、平和的、利他的な関係性のイメージが、理想的な雰囲気を醸し出しているからに違いない。
「共生」というのは状況によって「相利」的になったり「寄生」的になったりすることがあり、「共生」と「寄生」は決して対立概念ではなく、前者が後者を含むものである。新型コロナウイルスの「寄生」を、「共生」という言葉に置き換えても、何の解決にもならない。一般的には、「共生」概念は、お互いが利益を得ているような関係をイメージしている。だが、その概念とはもっと広く、文字通り「共に生きている」関係をあらわす言葉であり、「共生」とは、統合されて1つの生命システムを構築することなのである。
私たちがこの「共生」という言葉を使うときには、ほんとうにその意識と責任を負う覚悟を持っていなければならない。そもそも、新型コロナウイルスは、ウイルスの最高形態であるとも言える。免疫暴走を誘導し、突然重症化を起こし、死に至らしめる、この未知のウイルスと、「上手くつきあっていく」というのは一体どう概念なのか?
「検査不要」、「騒ぎすぎ」という、ウイルスワードによる市中感染が、ようやく落ち着き、社会が検査体制拡充に動き出したのも関わらず、またも新たに困ったウイルス・ワードが騒ぎ出した。
この「ウイルスと上手くつきあっていく」は、この国の社会が、未知のウイルスとの戦いを放棄する新たな「免罪符」となり、社会崩壊のトリガー・フレーズになる。
そもそも、ウイルスとの「共生」はウイルスと仲良くやっていこうということではない。「共生」とは、この「戦争」と向き合った後の結果であるべきである。「戦争」と向き合いもせずに「共生」ということは、概念行為として決して成り立たない。
つまり、私たちがウイルスとの「共生」という時には、本来は、自分たちもウイルスも「自然の一部」と考えるべきであるが、この国では「自然」と「人間」それぞれが並び立っている。人間も自然の一部として、統合されて1つの生命システムを構築することの論理の秩序の転換が必要になってくる。
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