「障害観」の脱構築
ヒューエンコムパブリックにおけるアンダースタンドは、「理解してあげる」ではなく、障害者の下側に立って「理解し合う」ことなのである。
「受け入れてあげる」であってはならない。それでは「共生」にならない。
私たちがこの「共生」という言葉を使うときには、ほんとうにその意識と責任を負う覚悟を持っていなければならない。教育による理性と寛容さの意識改革などは所詮耳学問に過ぎない。「障害者」の位置するのは、学者の論理空間ではなく、様々な「現実」が存在する瓦礫のグラウンドなのである。
『「障害者」の生産の場における共生』の主題は大きくいって二つある。一つは現代の市場経済学がその実態は市場原理による「商業経済」の自画自賛に偏ったものであり、けっして社会全体の正当な管理を追求する学問になっていない、という批判である。
もう一つは、生産における労働、コストや富といった概念が、社会のリアルな現実のなかで人間の事実にほとんど合致しておらず、価値が単なる量的な基準、貨幣という1次元的な基準で図られているだけでなく、その価値に対する需要と供給という経済的交換の根本の場面で誤った仮定が使われている、という批判である。
社会の共生は「生産」を通じて生まれる。全て人は、「生産」に携わり、他人の役に立ち、人類の一部としての自覚を持つことで人生に光を見出すのである。それは「障害者」であろうと同じことである。すなわち「生産」とは、人が価値ある人生を送るために必須の手段であり、またそれ自体「目的」でもあるものなのである。人間は生産を通じてしか付き合えない。世界にはやらねばならない仕事が無数にある。だからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、「障害者」にも、誰にでも居場所が空けられている。
しかし、今日の日本社会は市場原理主義により、格差が大きく、不完全なのものに実に不寛容であり、簡単に言ってしまえば生産性、経済性、効率、速度の価値基準で動いている。日本が抱える様々な問題に通底する日本社会に巣食う「完全崇拝」という魔物。つまり、「完全」というクオリアの問題が私たちに突きつけられた壮大な命題である。そして、「完全」というクオリアの延長線上に、もしくは深部において優生思想的なものが息づいている。そういう社会においては、「障害者」は邪魔者であり、厄介者である。競争原理から言えば当然そういうことになる。
ヒューエンコムパブリックは「障害者」の下側に徹底的に依拠して貫き通す。相手の下側に立つことにより、相手を理解することができる。それがアンダースタンドである。つまり、ヒューエンコムパブリックにおけるアンダースタンドは、「理解してあげる」ではなく、「障害者」の下側に立って「理解し合う」ことなのである。