「難民といっしょに〈家〉セツルメントを作る」


「難民といっしょに〈家〉セツルメントを作る」


「難民」の定義とは、紛争や自然災害により、国や都市を追われた人々だけではなく、身体的欠損の障害者、精神的、経済的、人間関係的などの社会的に苦難と排除を強いられた人々(socially disadvantaged)を定義する。〈市長小学校〉におけるGEIJUTZE の最大の有用性とは、貧困・紛争・災害における「日常」の再構築である。つまり、「いざという時」である。

この国は、「差別」にずっと蓋をしてきた。日本人には対等という概念がない、あるいは薄い。「支配」するか「服従」するかの極端な二択に振れる日本人の差別の振り子。そして、この内なる矛盾は、必ず排外へ向かう。 日本人はこの「意識」を転換しなければ、必ず歴史は繰り返す。

島国単一民族とされる日本人は、「異質」との共存が苦手である。日本人の持つアイデンティティは、優越と劣等というアンビヴァレンツな意識の構造から成り立っている。

「異質」 は社会や文化の水平的展開に大きく貢献する仕事を担っている。「異質」との共生は、民主主義において、器の内側と外側のような、一体の重層的概念であり、アンビバレンツな命題である。

この国に、この「異質」と「共生」する覚悟があるのだろうか。「難民」をただ受け入れることではなく、「難民」といっしょに、何を「生産」するかである。難民たちの自己学習による「たゆまぬ再生産」を実現する。

それが〈市長小学校〉の提唱するGEIJUTZE の淵源である。私たちのGEIJUTZEは復興の瓦礫の中から生まれた。私たちのGEIJUTZEの形象を絵空事だという批判は当たらない。この国の知術や現代アートのインテリジェンス・ドリームとは全く異なる。存在しながら、いつか消滅していくのが、インスタレーションGEIJUTZE。いざという時には必ず突然現れる。だが、そこには具体としてモノが形象され、その内側には間違いなくシュパヌングが存在している。

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