「私たち抜きに私たちのことを決めるな」


「私たち抜きに私たちのことを決めるな」〜薬物依存症のことは、依存症患者自身が決めるべきである。

障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)は「私たちの事を私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」を合言葉に世界中の障害当事者が参加して作成され、2006 年に国連で採択をされ、2014 年 1 月に日本政府が批准をした。


薬物犯罪者は、弁護士の作成した美文脈の謝罪ではなく、自分の言葉で語るべき。社会は否が応でもこうした薬物依存症患者と共生して行かねばならない。こんな連中のために何故、と思う反面、私たち自身もこうした依存症と紙一重の背中合わにあるのも事実である。精神的にも身体的にいつどこで損壊するかもしれない。
この国の深刻な依存症は決して薬物だけではない。アルコール依存、ニコチン依存、ギャンブル依存、おまけにステーキにも依存している人間も存在する。
薬物依存からの更生は、『精神論』では語れることはできない。薬物依存になった誰もが『薬物を止めたい。更生したい』と思っている。だが、脳が自分でコントロールできない状態になってしまうのが薬物の恐ろしさであり、そんなに簡単に更生などあり得ないのが現実である。

もちろん、臨床の現場主義では、依存症患者の皮膚の内側のアプリオリに侵入していくことが使命である。だが、当然それにも限界があり、残念ながら患者の心の奥底に到達することは難しい。
最初から、確固とした抽象的存在として、依存症が存在するわけではない。だとすれば、依存症を描くには、内側からミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以外にはないのである。薬物依存の悲惨さについて、多くの「情報」や「知識」から「知能」を費やして「ラディカル」に語ることに意味は存在しない。

だからこそ、薬物依存症のことは、依存症患者自身が決めるべきである。ほんとうに社会と共生したいのか、したくないのか。薬物を止める覚悟があるのか、ないのか。社会に生きる人間でありたいのか。その上で、薬物依存症患者に寄り添い、その命や人権を徹底的に護り抜くのが社会の役割である。依存症患者を刑務所に入れればいいという発想は、物事を次元を持たない点でしか捉えることができない、この国の「考え抜かない」国民性を如実に表している。

芸能人の薬物中毒問題は、薬物依存症患者の「薬物依存」との戦いと同時に、業界や社会の薬物中毒者に依存するイネイブラーとの戦いでもあるとも言える。薬物依存症患者が生産社会とどう関わるのか。音楽や女優の世界への復帰などあり得るはずがない。依存症の影響下にあった生活圏と同じところで回復しようとする場合、世間の目などのストレスがあったり、フラッシュバックが起こりやすかったりと、そのストレスから、さらに依存に陥ってしまう可能性もある。

こうした治療上の環境を考慮することはもちろんだが、一方でいくら飛び抜けた才能があろうと、社会の様々なサポートを受けている人間の社会復帰が、社会の中心に位置する華々しい世界であっていいはずがない。社会的サポートを受ける人間は社会の周縁に位置しなければ社会の理解を得ることは出来ず、依存症患者は刑務所という極論による、ステレオタイプの議論が繰り返されることになる。

依存症は進行性で自然治癒のない病気とも言われている。治療・回復のために、全く新しい環境に身を置くのも選択肢のひとつであり、海外も含め誰も知らない地理的社会的な周縁で「治療共同体」を依存症患者自身の手で構築すべきである。

また、薬物依存症患者の再犯については、当然一義的には患者自身の責任だが、更生させることが出来なかったのは社会の側の責任も大きい。「作品には罪はない」という市場側の都合の膜を張り、安易に芸能界やテレビの復帰させる一方で、薬物犯罪者はみんな刑務所に入れろという、次元を持たない稚拙な暴論が飛び交う。この国の「知術」においては、硬直した因果律により、こうしたステレオタイプの議論しかできないのが現状である。

そして、弁護士が作成した定型の反省文を真に受けて、ろくに考えもせずに過去の判例を踏襲した判決を繰り返す裁判所や社会的サポートや更生プログラムなどと、その現場すら見た事のない人間が、寄ってたかって依存者の更生ありきを硬直した因果律で議論する、テレビやマスコミジャーナリズム。共通するのは共に深く考え抜いていないということである。


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