オルタナティブな「障害観」は、「生産」を通じて生まれる。
「障害観」の脱構築
「障害観」の意味論的展開と再構築
〈全ての「命」は、他の者との平等を基礎として、その心身がそのままの状態で尊重される権利を有する〉
これは、2014年に批准した国連の障害者権利条約の第17条の精神である。
「障害観」の脱構築、オルタナティブな「障害観」は、「生産」を通じて生まれる。
社会の変革と障害者の自立の問題は、卵が先かニワトリが先かの議論から一歩踏み出す必要がある。
その答えは極めてシンプルだ。社会が変わらなければ障害者の自立はあり得ないし、何より障害者が自立できない社会の存在に一体どんな意味がいるのか。
そもそも「障害」はその人間自身ではなく、社会の側にある。「障害」のありかを個人の中ではなく、環境ー社会の相互連関の中に求めるべきなのである。
現在、「障害」意識論に求められているのは、個人の「障害」概念の分析でも、またイデオロギーとしての「障害」概念分析でもなく、社会環境との連関における「障害」の構成的概念ではなかろうか。
本人を環境に適応するよう単線的な「定型」の発達へと変えるのではなく、本人の発達特性にあわせて、環境の側の調整を行うことが芸術の使命であり、そして芸術にはその力がある。
どのような状況に置かれているどのような人間や集団がいかにして「障害」意識を形成され、保持しているか。またその集団に所属している個人個人はいかにして「障害」意識を内面化し、強化し、また逆に集団の「障害」意識を支えているか、つまり、「障害観」の脱構築こそが障害に関わる社会差別の廃絶や世に言う「障害者」と呼ばれる人々の人権の確立のための最重要命題とされているのである。
芸術は欠損に恋をする。黄金率でないもの、弱いもの、足りてないもの、芸術はそれを見た時、本能で補おうとするそれが芸術のクオリアなのであり、美の追求においてデザインのそれとは決定的に異なる。
九度山の家は、人の不完全さを許容し、欠落を満たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する侘び寂びのアーキテクチャーだ。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言い、寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めることになった、『魂の安らぎ』の空間なのである。
美的形式原理の再構築を通じて、芸術性の高い産業に障害者が流れる仕組みを作らなければならない。
この壮大な命題は人間の意識や教育だけではすまされない。コンセクエンスとして、障がい者の生産への社会参加と共生が実現しなければ、それらの概念は何の意味も持たす、単なる言葉遊び、定義遊びの域を出ることはない。
この国の「障害観」の問題は、現代日本人が「新しいモノ好き」、「キレイもの好き」という国民性とも相関している。現代日本人は「古いもの」「汚れたもの」「壊れたもの」に非寛容でありとりあえず視界から遮断する傾向にある。それは時として問題の本質を隠蔽し、本当に大事なことを見失うことになる。
社会や市場を「不完全」、「不細工」、「不揃い」を許容する寛容で持続可能な社会を形成しなければならない。
まず、社会が変わらなければ政治は良くならないし、企業も良いモノづくりはできない。民主主義や市場主義において政治や企業には、良い社会など作ることはできないのである。
良い社会を作るのは政治家や企業家の役割ではなく「芸術家」の仕事である。「芸術家」とは圧倒的イノベーションの実践者であり、いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指す。
そして、その解決は政治ではなく、芸術の仕事であると言える。
人間が道を歩くことができるのは、身体の「歩ける」性質と、環境の一部としての道の「歩かせる」性質が適合した結果であると考える。これがアフォーダンスの概念であり、歩くという行為が成立する上で、人間と環境が対等の責任を負い、環境がその中で生きる動物に与えてくれる行為の機会のことである。人間や動物たちは、このアフォーダンスを環境の中で知覚し、それによって自分の行動を調整しているのである。アフォーダンスは人間と環境のどちらの一方的な属性ではなくて、人間と環境の両方にそろってはじめて、営みが可能になるということである。
「障害」が差別を生むのではなく、差別のクオリアが「障害」を生みだす。
この国では異質の存在者が現れると、社会や国家のエントロピーが高くなる。そして、エントロピーの高さは、「障害」という穢れとして意識され、社会や国家、エントロピーを縮減するために、その穢れを清めようとする。この国のこうした「異質」性を恥とする。ある意味、身内の「恥」は隠せという日本的考え方では、いつまでたっても問題の根本的解決には全く資さない。
つまり、「障害」をつきつめていったら、「差別」になったのではなくて、まず相手に対する「差別」への能動があって、そのツールとして「障害」しかなかったということである。
すべての「優劣」は錯覚である。
我々のほとんど、もしかすると全ての人間は無自覚な「差別」意識を持っていると見て間違いない。その差別意識の多くは、なんらかの社会的な価値が自分より劣る(と自分が判断した)者に向けられる。その場合の「差別」意識は“優越意識”と置き換えても良い。自分より成績の劣る者に、自分より仕事ができない者に、自分より顔が悪い者、収入が低い者、不健康な者、そして不幸な者にその優越意識を向ける。
「差別」意識を持つべき正当な理由がない限り、人は安心して他人を「差別」できない。“不当に”相手を「差別」するということが己の良心をかき乱すからだ。「差別」意識をしっかりと支えている思想があるからこそ、人は安心して「差別」意識を持つことができる。それは自覚した「差別」か、区別を隠れ蓑にした無自覚の「差別」かにかかわらない。
この国では、成績の良い生徒や仕事の出来る人間がそうでない人間を見下してもよいという「特権」を与えられているかのような環境ができ上がっている。
もしも、一つの価値体系の中で自分が優越感を持つことが出来ないとすれば、人はその他の価値基準において他人より優っている点を探し出そうとし、出来うるならば、自分が評価されない価値基準よりも自分を評価してくれる価値基準を上に置こうとする。いわば価値基準どうしに優劣を付け、自分をより高い価値体系の中で評価されるべき存在として位置づけようとする。
「優劣」という安定本能がある限り差別はなくならない。それが人間のデフォルトである。
個人の個性や特性、それが社会的に「障害」と呼ばれることであっても、そもそも人間の個性や持って生まれた「特有の性質」によって、優越感を感じたり、劣等感を感じる。それは主観であり、観念の領域である。主観においては、個人的に誰が誰に対して優越感を持とうが、それは個人的な観念問題であり、それ自体差別的な観念であろうと仕方がない、それが人間のデフォルトなのであり、人間はそのように出来ている。
現実的に見て、人間は多かれ少なかれ差別的な存在だ。まずは、その現実を直視しなければならない。「差別はある」というところから議論をスタートさせないと、空虚な理想論に終わってしまう。「差別」をあたかもないことのようにして、世界が真っ白であるかのような幻想に浸り、黒い部分を直視することを回避しているのが、現在のわれわれの社会である。
「異質」なものとの「共生」の覚悟があるのか
「異質」 は社会や文化の水平的展開に大きく貢献する仕事を担っている。「異質」との共生は、民主主義において、器の内側と外側のような、一体の重層的概念であり、アンビバレンツな命題である。
「異質」を「不良品」としての社会から隔離する発想自体、結果的に自ら民主主義の首を絞めることになる。それはすでに民主主義とは呼ばない。
「異質」に他者が知識を与える存在としてではなくて、「異質」を中心に据えることにより、行動し思考する主体として捉える、具体的には、従来の自立支援の枠組みを超えて、人間の限界や弱さや不完全さを受容できる、オルタナティブなパブリックや生産社会のゾーニングの再構築が求められのである。