〈市長小学校〉演習プログラムーセツルメント〈家〉は突然現れる
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〈市長小学校〉の演習プログラムのセツルメントは、世界中の「家」で展開される。普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、いざという時、その空間は「パブリック」になる。
シェア型のサービスでは、個人個人の「自閉」的表現をオープンにすることによって各自のもつ価値にアクセスができる。そして、そこからパブリック空間が生まれる例えば、自分の車を通勤時に誰かと乗り合わせるマッチングサービスであるrideshare(ライド・シェア)は、自分一人だけで運転しているとき車内はプライベートな空間だが、マッチング・サービスで他人が乗ってくれば、その空間はパブリックになる。つまり、パブリックとプライベートは対立する要素ではなく、何をプライベートにして何をオープンにし、パブリックにするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性である。自らの部屋をオープンにしてシェアすることで世界中に宿泊先を提供するAirbnb(エア・ビー&ビー)や、アマチュアの料理愛好家が手料理を地域の人とシェアするCookistoといったさまざまなシェアリングサービスは、個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれる。つまり、時間や場所による分割ではなく、多層な重なりとして、オルタナティブなパブリックの機能を果たしている。
思考する小さな「家」ー「セツルメント」
こんなちっぽけな「小屋バウヒュッテ」で何が出来る?
セツルメント〈家〉の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができる。GEIJUTZEをスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことができるのは、普段、役に立たない人間だ。制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す論理形式のボックス〈箱〉を意味している。
私たちの目指すセツルメント〈家〉は、あらゆる面において多層的キュビズムだ。つまりその外形のインテグリティは不細工で、不揃いのちっぽけな小屋に過ぎない。だが、ダイバーシティや人権や環境を具象化していくと、合同な正方形で囲まれた立方体ではおさまらない。インテグリティとは、誠実、完全性、全体性、整合性、統合性、などの概念が包されている。その表現は不細工なキュビズムだが、フラクタルでスペクトラムな特性を持っている。
現代の企図された均質で効率的な都市化を構成する家に対し、何とかそれを無効化し、市民が都市全体を自分なりに「転用」する可能性を模索する。セツルメント〈家〉は、単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。僕たちのセツルメント〈家〉づくりには、高齢者も障がい者も、女性も、そして子供たちの手が「必要」だ。カフェであれ、工作所であれ、この小さな〈家〉は、日常を維持するするだけでも、やらねばならない仕事が無数にある。
だからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、誰にでも居場所が空けられている、究極のワークシェアリング社会が営まわれ、子供にも子供としての、障害者には障害者としての「人権」があれば、「義務」もある。共通するのは支えられる側ではなく、社会を支える側にいると言うことである。
社会の紐帯は「生産」を通じてしか生まれない。人が人を「必要」とする関係性こそが、セツルメント〈家〉に通底する概念である。