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「新しい定常」ー ポスト・コロナ時代における オルタナティブな定常とは

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「芸術再武装」
コンセクエンス❶ー免疫食堂                    
「底辺の再構築」ボトムオブピラミッドー免疫クラスタの形象

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「新しい定常」ー                          ポスト・コロナ時代におけるオルタナティブな定常とは



僕たちは、そろそろ、問題の「全体像」と「先端」を議論する必要がある。

                                  新型コロナは、僕たちが追求する実際の価値の本質を明らかにした。すなわち、「生以上の価値はない」ということである。そして、僕たちの生を維持させるものは「健康のための、きれいな空気と水と大地」に他ならない以上、これらのものの維持、保存、保護こそが価値の原泉であるといわれるのである。
それはコロナ以前の経済学から見ればきわめて素朴な議論であったが、しかし今日の僕たちの目にはもっとも新鮮な「定常」であるように映る。


もう、以前の社会、生活に戻れることなど決してあり得ない。覚悟を決めるしかない。

パンデミックが収まった後も消費が元に戻るとは思えない。
「過剰消費」と「莫大な無駄」で成り立つ現代社会、産業革命以降の経済拡大は、壮大な無駄の相乗効果の上に成り立ってきた。

消費の無駄は文明を支える“美徳”だ。と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。

パンデミックが収まったら、現代経済が崩壊しないよう各業界が総力をあげて過剰消費を煽ることになるが、もう、以前の消費社会、生活に戻れることなど決してあり得ない。覚悟を決めるしかない。



エシカルな「貧困」について、誰かがそれを言わなくてはならない。


エシカルな「貧困」とは、「限界生産性曲線」と「生存限界賃金水準」の合意形成についてである。

自粛解除に向けて、そろそろ、この問題の全体像と先端を議論する必要がある。もう、以前の社会、生活に戻れることなど決してあり得ない。覚悟を決めるしかない。

重要なのはコロナ危機によって、ドラスティックな行動変容が起こっており、自粛解除の後も、社会のプラットフォームが根本的に転換されることになるということである。

                                   
現在ある企業や産業を、全て守ることはできない。もはや、人間を守るしかない。

ポスト・コロナ時代に残るのは、人間が集団として生きて行くためになくてはならないものだけだ。それが、ニューノーマルと呼ばれる、ポスト・コロナ時代のデフォルトである。社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)、経済産業(工業、農業、林業、水産業、商業など)

それらは、機能停止しないように定常的に維持されていくが、それが以外は、早かれ遅かれ全て蒸発することになる。

つまり、お笑い、エンタメ、ライブ、イベント、プロスポーツ、パチンコ、風俗、接客飲食、インバウンドは「休止」なのか、「停止」なのか、「廃止」なのか。その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。


この国のエンタメやスポーツなどの興行芸術文化は           「停止」局面を迎えている。


この国のエンタメは、少なくとも一年くらいは。一旦すべてデフォルトにすべきである。それはとても退屈な社会だが、この国はその退屈を許容するところから始める覚悟が必要となる。

それがエンタメ的文脈における「停止要請」の実相である。いったん時計の針を止める。そして、「とりあえずこれについては合意できる」というところまで時計の針を戻す。そしてそこから「やり直す」しかない。

私たちがするべきことは立ち止まることである。「芸術だ、文化だ、お笑いだ、エンターテインメントだ」と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。


僕たちは、ポスト・コロナ時代の                   オルタナティブな経済学を再構築しなければならない。

                                  ポスト・コロナ時代における経済活動の主題は大きくいって二つある。一つは一般に「ポリティカル・エコノミー」と称して流通し、社会運営の理論的支柱としても認められている経済学が、その実態は「商業経済」の自画自賛に偏ったものであり、けっして社会全体の正当な管理を追及する学問とはなっていない、

もう一つは、ポリティカル・エコノミーが使用する価値や労働、コストや富といった概念が、社会のリアルな現実のなかでの人間の事実にほとんど合致しておらず、価値が単なる量的な基準、貨幣という一次元的な基準で測られているだけなく、その価値にたいする需要と供給という経済的交換の根本の場面で誤った仮定が使われている。


オルタナティブな貨幣とはー                     これからの「財」は常に思想的でなければならない。


皮肉にも、新型コロナウイルスは、人類の未来にミニマルという選択肢を突きつけた。人間のつながりや、家族、トライブ、共同体のあり方もドラスティックに転換されることになる。パラドキシカルに言えば、正逆転発想で理念や問題意識を共有できる人間を結びつけることができるとも言える。

僕たちの提唱する本質的な議論とは、現在、政府が推進する、アベノミクスを軸とする、生産性革命や、働き方改革など目先の場当たり的な政策のためのジョーク小論ではなく、労働、生産、消費についての定義を再抽出し、人間行動の諸法則を演繹的な体系へとまとめあげようとするものである。

新型コロナウイルスについては、疫学、生物学的領域に留まらず、全体的社会的現象のフェーズに突入している。全体的社会的現象とは、人権、環境、コミュニティ、パブリックにおける社会的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できない。僕たちの運動で、HECP(人権・環境・共同・公共)の理念の共有とコンソーシアムという新しい原理にもとづいて構想される免疫クラスタという、オルタナティブな経済社会の構築を図っていく。

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今回のコロナウイルス・パンデミックは、               生産と消費の関係を確実に変える


ポスト・コロナ社会においては、今回のコロナウイルス・パンデミックは、生産と消費の関係を確実に変える。「おもてなし」という、この国を苦しめてきた醜悪な慣習などは真っ先に蒸発することになる。

オルタナティブな定常が構築しようとするヴィジョンは、人類社会における「財」に関する公理から導かれ、HECPの理念の共有とコンソーシアムという新しい原理にもとづいて構想される。

オルタナティブな定常のプラットフォームのもとでこそ、「正しい物が正しい者に届く」ような「名誉ある財」の循環が実現されていくことになる。生産と消費、そして社会の三値論理におけるビリーフ・ドリブンとあるとも言える、


僕たちのゲイジュツは、限られた論理空間での論文でもアドボカシーでもない、現実空間におけるコンセクエンスである。


僕たちたちのゲイジュツは決して 限られた論理空間におけるスタティックな政策や法律を目的とするものではなく、現実空間での人間の動的なアクションのなかで考え、具象のインスタレーションを通じて論理の概念化を展開していく。

私たちは、この「芸術」と「経済」、そして「民権」という原点、この「国のかたち」そのものが根底から揺らいでいる今こそ、この理念の旗を大きく掲げ、その趣旨・目的に賛同する者に広く参加を呼びかけるものである。

「免疫食堂」は、「自己学習」と「自己表現」により日本全国で30万カ所、世界中に2000万カ所の〝家=アーキテクチャー〟で展開される。

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〈お願い〉ーこの運動は、僕たちにとってのアウトノミアなのです。アウトノミアとは、自己学習ー自律・自主という意味です。1970年代にイタリアを中心として,学校・工場・街頭での自治権の確立を目指して行われた社会運動です。その趣旨に賛同していただける方は、どなたでもこの運動に自由に参加していただけます。 もちろん、費用などは一切発生しません。オールフリーで、「自己学習」と「自己表現」で展開されて行きます。しかし、自らの手柄に奔走する人間、特に従来の既成概念や豆知識に規定される議員や学者、マスコミ文化人などの特権意識を持った方は非ターゲットです。それは、この運動の触媒性を保つためには、特権的な人間を作ってはいけないという考え方によるものです。また、運動の倫理に関するポリシーや社会正義に複数回のまたは重大な違反が現認されましたら、この個人、企業及びブランドの参加資格を停止させていただきます。

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