行政こそ、非差別とすべての人権およびヒューマンライツを包括する総合GEIJUTZEであると規定する

〈市長小学校〉ー
難民といっしょにヒューマンライツを作る



国際万博アンバサダーを名乗るセックステロリスト
〈市長小学校〉は、松本人志事件をジャニーズ問題と同様に、
猟奇的性犯罪事件だと世界に訴える


“松本人志裁判はなんだったのか”

「事実無根なので闘いまーす」と表明した松本人志が、なぜ自ら闘いに終止符を打つに至ったのか。

松本人志による少年時代から数えると50年に渡るフェティシズムによるいじめ、パワハラ、セクハラなどの人権侵害、そして、とりわけ30年間に渡る上納システムによる性的被害を受けた女性は数百人を超えると言われている。まさに、ジャニー喜多川の少年に対する性加害と全く同じ幾何である。

後輩芸人を使い、狩りのように女性をホテルの一室にで追い込み、同意不同意、挿入行為の有無に関わらず、強制的性暴行を何十年年間にわたって繰り返し、その「映像」を脳内にダビングし、テレビ番組で自らの口で、まるで自慢話のように、上納システムや性暴行について面白おかしくトークに利用している。つまり、いじめ体験を自らの利益、紙幣に転換しているにである

この国は長い間、松本人志の笑いの膜に覆われていた。松本人志式「いじり」の存在が、「いじめ」をカモフラージュし可視化できない。「いじめ」は、軽微なふざけやからかい、冗談などから、明らかに刑法に触れるような暴行、傷害、恐喝などに至る幅広い行為が含まれているにもかかわらず、逸脱性の判定が不明確であること、多くの「いじめ」は中間のグレイゾーンで発生していること、そして何よりもやっかいなのは、加害者の加害意識が希薄化していること以上に、加害者をヒーローにする松本人志式メソッドバイブル存在することである。

現代の「いじり」の役割として、「いじめ」の存在が教師や親から見えにくくなり、大人にとっての可視性が低下させている。これまでの「いじめ」は、相手の弱点や環境要素のマイナスの側面がスティグマにされたが、現代の「いじめ」では、真面目さや、正義感の強さ、成績のよさなど、本来はプラスの側面もスティグマにされている。歯止めが消失していることで、陰湿で残忍な方法が深く沈澱し長期にわたり、「いじめ」の本質がカモフラージュされ、現代の子どもの衝動に対して抑制をかける力と、相手の痛みに対する共感能力が失われてきている。

松本人志式の「いじり」のメソッドとスマホさえあれば、誰でもが「いじめ」加害者になれる。加害と被害の立場の入れ違いが起こる場合もあり、昨日までの被害者がターゲットの変化にともなって加害に回る、被害者が、さらに弱い子をいじめる場合もある。そして、いじめる側、いじう側が集合化していること、これは旧来のいじめの形から、加害側に中核となる者がいる場合でも、周囲を巻き込んで観客を形成し、クラス全体で1人を攻撃する。「いじめ」の形態は複雑に深化しているが、その中心に変わらず存在するのが、松本人志式の「いじり」のメソットである。

日本人は「いじり」と言う「差別」の免罪符を手にした。日本人は元来「差別」は大好きだ。「差別」が面白い、そして、楽しい。それはレイシズムなどの人種差別とは位相が異なり、「いじり」は、この国の固有の楽しい、面白い、人権侵害の形であり、いわばエンターテイメント/娯楽としての差別や人権侵害だと言える。これは「差別」の最高形態であり、日本、あるいは日本人の闇は想像以上に深い。この「差別」エンタメを受け入れて実行しているのは、この国の普通の人間たちなのである。


「良くない日本人」

この国では、動物行動学で言えば、遺伝子レベルで日本人の「家畜化」は急激に進行している。「家畜化」された人間の特徴は、いつも発情(性的興奮)しているということだ。そして、「家畜化」された日人の発情は、持続的かつ強烈な非定型的な性的興奮のパターンを特徴とし、これは性的な思考、空想、衝動または行動から明らかである。

興奮のパターンは、年齢もしくは立場・状況から問題となる行為への同意を拒む、またはできない相手(思春期前の小児、パワーバランス、無警戒な人、動物)を巻き込むことが中核にある。その背景にあるのは、日本人固有の「呪物崇拝」によるアニミズムであり、フェティシズムである。

理想の憲法である日本国憲法下で、なぜ松本人志のような人間が育つのか。それは決して日本人のアプリオリやゲノムだけの問題ではなく、時代や社会が産んだ、エピゲノムによる現代的モンスターである。つまり、松本人志問題の本質は、決してカタログにはなく、「不同意性交罪」などの法的な新製品を追加することには何の意味もない。日本人は「人権」の幾何を一から積み上げることから始めるしかないのである。

この国の「人権」とは何か?重すぎる日本国の人権カタログ


この国の憲法は世界に類を見ない素晴らしい、理想の憲法だが、その完全性には、いわば何らかの「欠落」が欠落している。この国の「人権カタログ」は、新しい人権における権利や自由という「新製品」を網羅的に列挙していくが、この国の人間には、このカタログはあまりに重く、持つことさえできない。まずは、人権リテラシーをトレーニングしなければ、いくら「新製品」が増えても意味をなさない。

この国の差別的行動や偏見基づく思考は、そもそも人間は環境への適応のために獲得した正常な心理機能に根ざしている。そして、その機能は私たちの意識を超えた形で働くため、これを統制することがきわめて困難である。 「差別」は、精神力動における防衛機制の一つであり、人間は目標達成を阻害され欲求不満フラストレーションに陥ると攻撃衝動が高まり、その衝動を充足させるための対象として攻撃を向けても安全な他集団少数者集団が標的として選択される。

一方で「差別」や「偏見」は人間に程度の差こそあれ、普遍的に備わっている潜在的な病理現象でもあり、啓蒙教育により平等主義思想の普及を図っても問題は容易に解決しないのも事実である。
現存する格差や不平等を偏見、差別の結果とみるのではなく、本人の努力の欠如に原因を求め、加えて、社会的弱者が過剰に自分たちの権利を要求し不当に優遇されているという主張を行う傾向がある。このような主張を行う人々には、それが自身の偏見や差別意識に由来するという自覚がない。

「差別」は、集団間に現実的な利害の対立や競争関係があり、自らの集団の利益が他の集団によって脅かされる状況にあるときにみられる反応でもあり、その場合には一定の合理性を持ち、適応的で正常な心理機制の反映とみなされる場合がある。
集団生活を営む人間にとって互恵性規範よる集団協力は、自己利益守りための、不回避的に起こる優れて適応的な行為現象なのである。その最たる例が、「おもてなし」と言う国家統制的差別である。

潜在認知の変容可能性として、集団に対する態度には、顕在レベルと潜在レベルがあり、顕在的態度は強い意志によって意識的に変容させることは可能であるが、潜在的態度は、様々な情報に接触する過程で無自覚に形成され、意識化できない。だが、潜在認知がさまざまな情報への接触を通して、無自覚に形成されるにであれば、そこには本人の意識的能動的選択の余地はなく、周囲の情報環境がそのまま反映されているに過ぎないことになる。もしそうであるなら、個人の置かれている情報環境を変えれば、おのずと潜在レベルで形成されている、「差別」のアーキテクチャーも変化するはずである。潜在認知の変容可能性は、潜在認知も顕在認知と同様に環境への適応のために形成されるものであり、環境への変化に応じて柔軟に変わるように設計されていると考えるのは可能である。



松本人志やジャニーズファンは
〈市長小学校〉の非ターゲット


「差別」は世界中どの国でもある。しかし、この国の最大のパラドクスは、「差別」が心のヨリドコロになっていることである。日本人は自分の「下」を作り、「差別」することでしか、ヨリドコロを感じることが出来ない。

この国ではこれは「差別」でこれは「区別」などと理由のわからないパラドクスに嵌ってしまう。「差別」と「区別」の違いはその分類が垂直的であるか、水平的であるかだけであり、そこには優劣は存在しない。恣意的な「区別」「差別」に対しては、「差捌」というようなもう一つの概念の「箱」が必要である。つまり、人種差別、女性差別、障害者差別と言うことで初めて「差捌」と言うことで概念が浮かび上がってくるわけであって、「差別」に良いも悪いもなく単なる垂直的な分類を指しているだけなのである。もはや言語の体系としての体をなしていない。

「障害」解消のためのアファーマティブ「差別」を、平等原理や平均原理に反する「逆差別」となどと騒ぎ出す社会や論理の秩序をこのまま続けていいのか。世界では「差別」は手段だが日本では「差別」が目的になってしまっている。つまり、「差別」は愉しい、面白い。日本人の「ヨリドコロ」なのである。おもてなしという立派な「差別」は、もはや国是とされている。おもてなしを「区別」というのには無理があり、お客は「差別」されているからこそ喜ぶのである。日本人は「差別」するのもされるのも、「差別」が大好きな民族であり、それは日本人は「対等」という概念を持たないことを意味する。つまり、「差別」には良いも悪いもない。「差別」は悪いもの、「差別」を指摘されると、それは「区別」などと理由のわからない弁解が始まる。

日本人は日本語で遊ぶ。障害を個性と呼ぶような欺瞞は、もうそろそろやめたほうがいい。障害は障害で、障害者は障害者以外の何者でもない。アメリカでは障害者(disabled people)という「概念」は存在しない。障がいを持つ人、障害と共に生きる人(people with disabilities)という言い方をする。つまり、その人にとって障害は1番目のアイデンティティではないのだ。あくまでも「人」に焦点を当て、私たちには人間として同じ権利があることを強調している。

NHKでは明確な理由で「害」を使い続けている。それは、「障害」はその人自身ではなく、社会の側にある。障害者=社会にある障害と向き合っている人たち、と捉えているからである。しかし、この国でこのような「定義」をはめ込んでも何の意味も持たない。

健常者にとって、障害者の存在は「敵」なのか、「下」なのか。ユダヤとパレスチナは昔も今も敵と味方だが、ずっと戦争をしていたわけでもなく、100年前はこの敵と味方は共存していた。それは、敵と味方は変わらないが「両国」には共存の未来は必ず訪れるということでもある。だが日本の場合、中国や韓国朝鮮、アジアの国に対しては、「敵」ではなく、「下」だと思っている。西欧に対しては劣等感を持ち、アジア・アフリカなどに対しては意味もなく優越感をおぼえる。つまり日本人にとって「下」がほしい。自己アイデンティティの独立しないイネイブルな特性を持ち、他者の幸福を妬み、他者の不幸は自身の幸福と考えるのが日本人の特徴でもある。

ほとんどの日本人は留学経験もなく、英語やその他の外国語も得意ではない。外国人の友人もほとんどいない。自分では決して偏見に満ちた人間だとは思わないが、しかし日本でしか暮らしたことがなく、日本語しか話せず、日本人の友達しかいないというのは、世界の中で見れば紛れもない偏った民族であると言える。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる、不安・恐れ、偏狭な見方・考え方など、非好意的な先入観や判断、これが日本人の差別と偏見の土壌になっている。
人間には集団間の優劣や序列を肯定しようとする根強い心象があり、それが日本人のランキング幻想につながっていく。「差別」の真の源泉は人々が抱いている差別ー被差別関係への願望であり、様々な言説はその願望を充足するための道具として都合よく利用されているのである。


〈市長小学校〉ヒューマンライツー概念の演劇


立派な人間、完璧な人間が世界の代表者ではない。すべての人間は完璧ではなく、人間 (生命)はヴァルネラブルな存在なのだろう。世界の代表者はそのような脆く、非力な生なのである。そもそも「完璧」など存在しない。全てインコンプリートであり、「非対称戦争」おいて、優位に立つのは、道義的に「完璧」な側でもなく、あくまで「物語」を支配する側である。

いろんな「定義」を寄せ集めて、記憶するだけでは「概念」理解にはならない。日本人が思い描いているのは、「イメージ」であって、「概念」ではない。「概念」は、その中にどの様に行動したらよいかを言う

「行動様式」を含んでいる。これにより、人はいちいち、結果をシミュレーションしなくても、自然に行動することが出来る。それに比べて、「イメージ」は「行動様式」を含まず、単なる感覚の段階なのである。


「演劇」には可能性がある。だからこそ、私たちは「犠牲者」の側のメソッド演技に立つことにきめたのだ。

一体、この国の政治はどんな「演劇」がやりたいのだろう?



「演劇」は民主主義には不可欠な芸術の表現である。 何故なら演劇と民主主義は同じ発祥地だからである。だが、残念ながら、この国の「演劇」には「対話」という概念がない、あるいは薄い。だからこそ、この国の「演劇」は単独の権威として語られるモノローグの物語を観客に話をしている。だからこそ、〈市長小学校〉は、単独の権威として語られるモノローグの物語を観客に話をしている。

人種差別を公に撤廃した最初のライヴ会場は、ニューヨークのカフェ・ソサエティだった。世の中を変えるために必要なのは、過剰なパントマイムやメッセージ性だけではない。世界の芸術シーンはいま再び現代の対話の最前線にある。そもそも、「演劇」は「芸術」を志す者の幼稚なロマンチシズムと誇大妄想的なナルシシズムの象徴である。だが、そこには必ず「対話」があるはず。

私たちのような無名で無能な人間にとっての「演劇」とは、虚構は虚構を演じ続けることのみによりその心の隙間を埋める。虚像となろうともその心の隙間はとわに満たされることは無く、虚構を演じ続ける。 実体を持たす時、虚構は心から信じたものに対しこれ以上の欺瞞と葛藤し、深く思考する。そして、虚構は、この国の共同幻想にピリオドを打たんとし、それを他の誰の意思でもなく自己のモーレスによる臨床のみがすべての選択を可能する。

どうやって若い「観客」にアプローチするかとか、そんなことばかり考えて、一体、この国はどんな「演劇」がやりたいのだろう?
もちろん、若い人たちに向けてとか、ヒットさせるためにターゲットを考えることは大事なことかも知れない。だが今の時代は、わからないことも面白がれる時代だから、わからなくていい。「観客」にわからせようとするから民主主義という作品がつまらなくなる。説明が多くなったりして、だから、もしわからなかったら、わからなくていい。


〈市長小学校〉のメソッド演技
演技だよ、演技に決まっているじゃないか

メソッド演技の特徴としては、担当する役柄や劇中での状況やその感情に応じて、より自然な形で演技を行う点である。メソッド以前の演劇においては、役者は役作りや演技を行う際は、基本の発声法や仕草、パントマイムなどのテクニックを使用し、感情や役柄の表現を行っていたが、メソッドでは、そうした形式的で表現主義的な古典的な演劇手法と距離を置き、より現実と近い、自然な演技を追求している。そのため、演技をする過程においては、担当する役柄について徹底的なリサーチを行い、劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や役柄がおかれた状況を擬似的に追体験する事によって、演技プランを練っていく。

本来の政治家に求められる本質とは、役者が舞台に登場すると同時に、観客に人物キャラクターの特徴を伝えられるような明示性を備えるものとされている。だが、私たちのメソッド演技では、そうしたキャラクターは明示しない。無名であること、不明瞭であることのリアリズムを追求する。私たちのメソッド演技の台詞には饒舌性はない、大きな声も張らない自然滑舌による不明瞭性表現である。この不明瞭性は決して欠損ではない。障害者であれ、子供であれ、外国人であれ、反知性であれ、不明瞭であることがデフォルトなのである。

私たちの「演劇」では、人間の外見は曖昧にしておく、もしくはあえて人物の本性とは異なる外見を与えておく。言い換えればそれは、従来の演技では明示されるべきと考えられていた人物の本質的な性格付けを、異なる外見によって覆い隠す。最初の外見と後から現れる本性という二面的な人物像のダブルイマージュにこだわる。
従来の作品のように内面的な葛藤を美文脈の言葉で示したり、自分の素性を説明したりすることはしない。登場人物は、すべて無知で無能、そして無名な一人の人間に過ぎないのであり、言葉やパントマイムではなく不明瞭を前提した無言無語の意識のh熱量観客の心象に接近し、侵入していく必要がある。私たちの演劇は、非ユークリッド幾何学における、その表現は、一見すると奇妙で不細工なキュビズムのように見える。どこまで演じているのか、どこまで自然体なのかという〝キワ〟がものすごく面白い。もちろん、劇団で演劇の教養を身につけたり、演技の勉強をしたわけでもないコンプレックスであり、それが私たちの最大の武器でもある。

社会的不公正の犠牲になっているジェンダー、人種、民族、性的嗜好、障害等特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動は、みな「演劇」を通して形作られてきた。「演劇」は、人々を元気づけ、癒し、刺激を与え、教育してくれる。しかしそれはほんの入口だ。遥か昔から、「演劇」は世の中を映す鏡として、私たちの身の回りに起こっている出来事を映し出してきた。そして間違いなく、他のどのアート・フォームとも違う方法で、「演劇」は社会を変えてきたのである。 市長小学校のメソッド演劇は、オーディエンスに呼びかけ、先入観に凝り固まった考えを瓦解へと導いていかなければならない。
それはまさしく「演劇」がこれまでずっと、そしてこれからも果たして行く役割なのである。



〈市長小学校参加規定〉

市長小学校においては、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位による差別は行いません。それは、世界人権宣言に掲げるすべての権利と自由とを享受できると規定通りです。

しかし、松本人志を擁護する人間やジャニーズファンは例外です。彼らの存在は、上記の世界人権宣言の精神を根底から覆すからです。

ターゲットは中心になるのは、中学生以下の子どもたち、そしてファシリテーターは六十歳以上の高齢者ですが、上記に該当しない人間でも、市長小学校の理想や理念に賛同協賛できる方であれば参加を歓迎します。









行政こそ、非差別とすべての人権およびヒューマンライツを包括する総合GEIJUTZEであると規定する

行政こそ、すべての造形活動とすべての芸術および技術を包括する総合GEIJUTZEであると規定する


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