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Industry2.5 リボットクエスト「難民といっしょにロボットを作る」



Industry2.5  リボットクエスト
「難民といっしょにロボットを作る」




われわれの「難民」の定義は、対外戦争、テロ・民族紛争のみならず、人種差別、障害者、貧困・経済的困窮、自然災害、飢餓、感染症などの理由によって劣悪な居住環境、生活環境、経済環境、あるいは、居住区域を強制的に追われた 苦難を強いられた人々を指します。










リジェネラティブアート
「難民といっしょにロボットを作る」



リボット・クエスト〝Incomplete〟と〝Assemblage〟

「現代社会は完全神話を信じ込んでいる。」




リボットは「機械っぽくて無機質なモノ」も、元を辿れば受けての気持ちを考えた"人間らしい温かみ"」が存在しています。そしてこの「無機質さ」を創り出す上で重要な「人間らしい思想」こそが、アーツアンドクラフトやバウハウスに通底するインテグリティな理念だと言えます。






リボット・クエスト

電偶アニミズムー調和と祈りの象徴である電脳土偶



古来、日本の先住民である縄文人は、生きとし生ける全てのもの、即ち、万物には精霊が宿るというアニミズム(土偶/縄文時代)を信仰していました。

日本的アニミズムは、人が作った人形にも神霊は宿り、人間以上に生き生きとしたものにし、観客は人形に強く感情移入する。ものを捨てられない人というのは、アニミズム的発想で、全てのものに神霊が宿っているから、畏れ多くて捨てられないという想いもあるかもしれません。しかし、自分のところから離れたって、それがなくなる訳ではない。むしろ、自分が手放すことで、それが別の形になって流転し、人間からすれば長いが宇宙にとっては一瞬の時間で、リジェネラティブに生まれ変わります。



リボット・クエスト 
アニミズムー調和と祈りの象徴である土偶




リボットは、不完全な素材形状を不統一なパーツアッセンブリを自由に動かし、組み替えることができる。この性質をふんだんに利用し、生み出されたのがあの奇妙な身体のユニークな工芸ロボットです。リボットの身体は奇妙さはもちろんだが、ユ ーモラスな感じも与えられている。ショークの作品の数々は概して、「幼稚」で「プリミティブ」なものとして 消費されているようだが、それは作家の意図するところからは微妙にずれてい るとはいえません。


それならば、Showkによるあの奇妙な身体の〝reBOT〟は不完全であることの正当性を表象している。「完全」という概念に対して、〝reBOT〟という直接的には社会的有用性のない「オブジェ」 を生み出すという皮肉をきかせたものでした。表向きは不完全と称されているものこそが、じつは悦楽であり、それこそが完全な有用を目的とする場合に、必ずついてまわる不快の感情を追い払ってくれ、 好奇心にそって表通りを外れた横道のかずかずを教えてくれます。


 存在そのものに意味を求める多くの〝リボット〟は人間の身体から大きく異なった形態をしていますが、そこに身体パーツが含ま れていることから、それが人間を模したものだと理解することができます。各身体パーツは、頭‐胴‐脚というように本来は連続して分かれては存在していない。「全体像」が解体され、本来あらぬ位置に部位が配置されるとき、概念レベルでしかありえないはずのパーツがそれとして現われてきます。馴れ親しんだものであるからこそ、それは「不気味なもの」として現われるのです。ひとつきりの表象では複雑に変化していく現実を描きとめることは難しい。この「二重写し」の現実を、Showkは「ダブル・イマージュ」と呼びました。




「完全なるもの」はこの世に存在せず、
「完全」「不完全」の概念は連続的でスペクトラム



西欧の伝統的な美意識には、黄金比に起源するプロポーションの観念があり、日本では伝統的な美意識による既成のプロポーションの観念やコンプレックスも強く、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じません。日本人は「新品崇拝」も合わせて「古いもの」、「傷のついたもの」、「壊れたもの」には非寛容で、不完全なモノの「旨味」が理解できる人間が少ないのが現状です。それは時として問題の本質を隠蔽し、本当に大事なことを見失うことになります。アートのアプローチにおいては、プロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美があるという積極的なアプローチが必要になってきます。


アッサンブラージュは、決してパロディでもなく、パスティーシュでもありません。(パスティーシュとは模倣ー思想的、形式的独創性を介さず、スタイルとしてだけ装飾的に引用する表現)

また、伝統的な形態に回帰して、歴史の流れを無視して形式だけを借用するという、単なるポストヒストリーなアレゴリー的衝動でもなく、日本の神道に通じるアートを生命運動として捉えた〝断片〟によるインテグリティな表現なのです。本当の〝オリジナル〟を表象する作家などほんの一握りに過ぎないません。日常の生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで観客に真実を知らせることが〝アッサンブラージュ〟の役割なのです。

〝アッサンブラージュ〟は、時空を超えて縦横無尽に人々に感動を与え社会を変革することが出来ます。それがどんなに不完全であっても人間に想像する力がある限り、詩=アートには無限の可能性があるのです。寄せ集めること、そして、未完全であること、これが〝アッサンブラージュ〟の原点です。あなたの〝アッサンブラージュ〟には、世界を変える力があります。







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