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〈市長小学校〉九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025ー2055

九度山バウヒュッテフォルケ・ホイスコーレ


〈市長小学校〉
九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025

女性とともに今に息づく女人高野
~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~







2019年7月9日にこの世を去った、ジャニー喜多川氏の墓所は
高野山の山深く、いわゆる「奥之院」と呼ばれる場所にある。


〈市長小学校〉
九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025-2055


話題になっているニュースと結びつけて、その日の授業を行い、もしテロのことがニュースになっていたら、自分の身に起きたらどう反応するか考えさせます。社会に起きている問題が自分につながっているということを意識することが重要です。ひとりの人間として、「どのように社会とかかわっていくか」を一番大事にしています。ただ能力があるだけではなく、いろいろな目線を持ち、社会的な要素を備えて世の中に出て、学んだことを社会に還元しなくては意味がありません。この国のインテリジェンス、アカデミー、カウンシルなどの知術派たちは、子供の時から知識の暗記を積み重ねて、巨大な豆知識のツリーの上で様々な問題に首を突っ込んでは瑣末なレトリックを繰り返しています。私たちはこの国の知術派たちのような理路は取りません。コンセプトだけ出してモノを作らないのは卑怯者です。私たちは決して立派な人間ではなく、どちらかと言えば立派じゃない側にいます。私たちの芸術は、普段は社会の役に立つものは作りませんが、いざという時に立ち上がり、世界規模、地球規模、人類規模の圧倒的な理念をもったコンセクエンスを形象します。禅の中に「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないという意味なのです。


ジャニー喜多川氏の少年に対するレイプ性的暴行は、この国の空海の真言密教に由来する、稚児小姓の男色文化が現在に至るまで連綿と受け繋がれてきています。BBC報道における本質は、児童虐待についての日本人の認識の甘さが、国際的に問われているということの重大さを、私たち一人一人が謙虚に受けとめなければならないなどというような単純な話ではありません。この国の児童虐待と児童崇拝は、一つの器の内側と外側であり、その不ニな一つの塊として存在しています。それは、アニメ・アイドルなどのアニミズムを背景とした日本固有の「児童ポルノ」という強固な概念は、決してジャニー喜多川氏特有のアプリオリではなく、日本人が抱える「病理」だと考えるのが合理的です。現に1000万人を超えるジャニーズファンは、ジャニー喜多川氏の行為に関しては、決して重篤な人権侵害という認識はなく、むしろそうした行為に萌える心象、つまりジャニー氏の少年愛と同じ位相に存在しているからこそ、ジャニーズタレントやジャニーズブランドに対する絶大な支持が生まれます。私たちはジャニーズ問題を、児童虐待、人権侵害の問題として捉え、この問題の内側に侵入し、壮大な理念を持ったヒューマンライツを起動させていきます。


日本では「芸術」は社会とは隔離された"技能"として語られていたころ、バウヒュッテ・フォルケホイスコーレでは、経済・社会をまったく変える可能性を持つ"力"として「芸術」を捉えていました。バウヒュッテ・フォルケホイスコーレに行くと、世界が今注目している課題は何なのかということが見えてくるのです。「フォルケ」は、自由でごぶごぶ対等な議論が行える無名の人々のための「議会の場」です。反知性の無名な人々がリアルな議論を交わし、未来の社会を動かすことができる「議会」です。様々なセッションはもちろん、〈家〉の廊下などいたる所で、フリーに、ガンガン議論を応酬している姿も珍しくない。参加者は誰でも彼らと対等に意見を交わすことができる。これこそ、最強の自己学習の場なのです。考え方の違いにもすごく寛容で。「フォルケ」ではどんな意見や質問も、その人の考えとして大事にされます。育ってきた環境や文化が違う以上、考え方もそれぞれ違うのは当たり前。多少的外れに思われるような発言でも、参加全員が掘り下げて理解しようとすることにより間違った質問や、間違った意見などはここでは存在しません。難民や体の不自由な人など、それぞれ育った環境が全然違う人が「フォルケ」に集まっているから、自分の価値観だけでは測れない。背景を見ないとわかりあえないということはあると思います。


「芸術」の理解とは人間そのものの理解であり、この行為は人類最大の難題を背負うということなのです。つまり、歴史や社会史を前提とし、文化人類学を理解し、各時代の法体系を捕らえ、宗教学体系を知る。つまり万物の生存を包括的基礎教養として獲得する以外に全ての「芸術」要素を理解することが不可能なのです。表現の理解、解釈はどこまでも実証的なものです。観念の背景にある実在を立証する作業は不可欠であり、思想や言語学にも精通する必要があります。

「学習」とは、教えられることではなく、「能力」から選択すること。いいかえれば、組み込まれていない「能力」は出てこないという制約があります。「教育』によって『芸術』を得るのではなく、すべての人間は生まれもって芸術家であり『芸術』が「デフォルト」なのです。 

いまや、「芸術」を学べる情報・映像がアーカイブとして、過去から現在のものまで時間性・距離性を超えて広く安価に世間に行き渡ってきており、タブレットとグーグルさえあればいつでも、どこにいても、距離性・時間性を超えて世界中のあらゆる情報世界を縦横無尽に駆け巡ることができるのです。

「フォルケ」では、自由な時間の多さと、フラットで寛容な人間関係、そして何より、若者や高齢者、難民や障がいのある人など、様々なバックグラウンドの人たちが学びあいます。「フォルケ」の最大の特色はオープンアクセスであるということがいえます。誰もが自由に「参加」することが出来、プロジェクトを発展させていくことが可能です。有名なタレントや文化人だからといって全く特別扱いされることはなく、逆にその無名性が心地よい時間を過ごすことができます。「フォルケ」では国も文化も政治的な考え方も全然違うような人たちが、一緒に週末にイベントを企画したり、プロジェクトを進めていき、ダイナミックなものを生み出す経験ができるのも「フォルケ」の良さだと思います。当然意見の違いや対立はおきます。でもそこで、自分と他人との考え方の違いを学びながら、協力して一つのものを作っていく。「フォルケ」の人たちは、そうやって民主主義の考え方を学んでいきます。









2025 HECP International Exposition symposion
九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025-2055




《テーマ》

2025 HECP International Exposition symposion
2025-2055 ジャニーズ性加害問題

『ジャニー喜多川の痕跡をこの世から一切なくしたい』
藤島ジュリー景子氏は、そういったが、〈市長小学校〉における
ヒューマンライツの戦いは、2025-2055年において、ジャニーズの全てをこの国から排除する。つまり、ジャニーズや松本人志をのいない国を形象することで、日本のヒューマンライツを世界に訴求し、人権立国日本JAPAN‘S BIGGEST CHALLENGEをGEIJUTZEインスタレーションとして展開する。



0ゼロの真骨頂


0ゼロは足しても引いても数に変化を与えず、しかし、掛ければ必ず0ゼロになるという性質を持っている。



0は足しても引いても数に変化を与えない。でもな、ゼロはいざという時は必ず立ち上がり、掛ければ全ての数字を0ゼロにする。僕たちが誇る「数字」の主人公はゼロなんだ。普段はどうしようもなく優柔不断で臆病でかまわない。けどな、いざという時は必ず立ち上がらなければならない時がくるんだ。それが0ゼロの真骨頂だ。それが僕たちが誇る芸術の主人公なんだ。

この国のジャーナリズムは、『ジャニー喜多川の痕跡をこの世から一切なくしたい』という、藤島ジュリー氏の0ゼロの内側に侵入することが出来なかった。この「誠実」をグリップ出来なかったことは将来に必ず禍根を残すことになる。被害者とその家族たちをゼロにしてあげたい、そして、ジュリー氏のような加害者家族も0ゼロにしてあげたい。ジュリー氏の苦悩の内側に、そして加害者家族の苦悩の内側にも、決して侵入しようとしない。この国のジャーナリズムは、苦悩という概念を持たない、あるいはあまりにも浅い。ゼロは強力な概念で、普段は怠け者で、何の役にも立たないが、いざというときの「掛け算」で、世界を一気に変えることができる。この0ゼロは、相手が例えどんな大きな数字でも、一気に0ゼロにすることが出来る。だから、0ゼロという数字は面白い。

世界は乗算あるいは除算で動いている。重要なのは、「足し算」崇拝で豆知識のツリーを登ることではない。豆知識や数字はAIに任せておけばいい。こんなものは近い未来には、ポケット電卓にスッポリと収まってしまう。人間がすることは四則演算である。男女平等やジェンダー平等も、この国は何でも「足し算」、「引き算」で解を求めようとするが、それではいつまで経っても差別と逆差別のパラドクスから抜け出ることは出来ない。ジャニーズ補償問題において公平あるいは平等な帰結を得るためには、ヒューマンライツの0ゼロをかけるしかない。『ジャニー喜多川の痕跡をこの世から一切なくしたい』は、藤島ジュリー氏の『誠実』だ。もちろん、虚構だよ。だけど、この因子を『誠実』としなければ、ジャニーズ問題の単純と複雑の命題は解けないんだ。

僕たちのゼロは決して「何もないこと」じゃない。僕たちの0ゼロは、-1+1均衡あるいは待機の概念だ。「何もないこと」に対応する基数、つまり決して無なんかじゃない。僕たちの0ゼロ は 1 や-1の直前の序数(順序数)なんだ。禅の中に「用意ができたときに師は現われる」という教えがある。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないという意味である。僕たちの0ゼロはスタンバイしている、そしていざというときにいきなり現れてスタンドアップする。


それが、僕たちの0ゼロの真骨頂なんだ。



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女人高野の九度山で

一体何が起こっているのか?



高野山は、近代まで「女人結界」が定められ、境内での女性たちの参拝は叶わなかった。そんな時代にあっても女性たちの、身内の冥福を祈る声、明日の安らぎを願う声を聴いていた、「女人高野」は時を超え、時に合わせて女性とともに今に息づき、訪れる女性たちを癒し続けている。

九度山は、河内長野市(大阪府)、宇陀市(奈良県)、高野町(和歌山県)の4市町と共に「女人高野」をテーマとして令和2年6月19日に文化庁より日本遺産に認定された。

高野山から世界に「未来の形」を発信しようと始まった
「九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025」

芸術、科学、哲学など、多様な分野において、「難民」ー〝苦難の人々"が直接対話し、そして、生産する。モノのアニミズムを通して、自然と調和した未来の形を発信しようと、バウヒュッテ・シュンポシオン2025が、この秋、スタートする。

主権国家をベースに考えると、「難民」ー〝苦難の人々"はその国における少数派ということになる。しかし、統一されたグローバルというオーバーレイにおいては、「難民」ー〝苦難の人々"は相当の数に上る。テロや紛争などによる難民や地震や異常気象による災害の被災者、障害者や性的少数者などは、世界ネットワークでいうと一大集団なのである。

今、世界中の「難民」ー〝苦難の人々"が、オーバーレイなネットワークをつくり、ヒューマンライツを掲げた抵抗運動や復興運動を展開している。このような視点に立てば、〝失われた人々"は、必ずしも主権国家の中で弱者に甘んじる必要はなく、ヒューエンコムパブリックは地球上の「難民」ー〝苦難の人々"を代表するいわば世界最大の非国家となる。

「難民」ー〝苦難の人々"は、貧困や差別迫害など、社会問題の解決法を競い合う。アクティビティの広がりを見ていると、オーバーレイの世界で、力を合わせて問題解決を図ることで、実際の未来をよりよくできるのではないかと思えてくる。世界といったテーマのゲームには、計り知れない可能性がある。そうした問題に取り組むことで、問題解決を現実世界のさまざまな障害に気づき、実際の社会活動に参加するようになると期待できるのである。
ヒューエンコムパブリックで展開される、アーカイブ・レボリューションは、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こす。そして、それは決して夢物語ではない。















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