ステーショナリー革命/UBノートロジー

HECP/Huencompublic





UBノートロジーGeometric Topology Note




Every child is an artist. The problem is how to remain an artist once we grow up.」-Pablo Picasso
「すべての子どもは芸術家である。問題は大人になっても、いかにして芸術家でありつづけるかだ」ーパブロ・ピカソ


マルクスやレーニンは共産主義革命を発明した。21世紀の私たちは、「日常」を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、GEIJUTZEの可能性でもあるのだ

UBノートロジーは、世界革命をGEIJUTZEの領域でステーショナリーのような革命と定義する。記憶と記録、対話と協調、多様性を共有し、その実現可能性と持続可能性を図るものである。特徴はSNSなどの現代的なオンラインツールを活用しているが、あくまで運動の核となるのは、位相幾何学的に論理化されたノートである。こうした運動のコミュニケーションは、たいていの場合、小さな共同体や近隣集団のなかからゆっくり始まるが、一定のポイントに達すると、ミームは突然に現れ、そして一斉に世界中に拡散するようになる。



HECPノートソサエティは、国家に抗する反国家の〝共同体コミューン〟という意味でも、クリスチャニアのようなピッピーコミュニティの自治区やテアトロ・ヴァッレ などに見られるチェントロ・ソチャーレ(非議会主義占拠文化スペース) とも異なる。それは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々のフラタニティなパブリックであり、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象である。国家や行政区分の概念を超えて、人と地球と社会の自立と共存をテーマに持続可能な芸術的アプローチである。現代社会はイスラムでもない、アメリカン・グローバリズムでもない、「国家なき紐帯」の普遍性と摂理に基づいたパブリックの実現が求められている。世界が抱える様々な問題に通底するメッセージは、「テロや自然災害や貧困から人々の命を守るパブリックを創れ」ということだ。


HECPの世界で展開されるUBのノートロジーは、Facebook・Twitter・Instagram などの現代的なオンラインツールを活用するが、あくまで運動の核となるのは、論理化されるノートロジーである。

HECPのノートロジーは、行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の地理学であり、オルタナティブなパブリックとは、情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。人を集めること、または人・アイデア・大義・ニーズの周りに集まること。そして、周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすることである。HECPは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々のパブリックであり、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象である。それは行政区分や伝統的地理境界を超えたノートロジーのネットワーク地理学であり、オルタナティブなゲマインシャフ〈基礎自治体〉だ。ノートロジーは、国家や行政区分の概念を超えて、人と地球と社会の自立と共存をテーマに持続可能なGEIJUTZEアプローチだと言える。


UBノートロジーという、日本のオルタナティブ・カルチャーに共感する数千万人の「支持者」を世界中に作りだす。観客は世界の人々である。残念ながら日本という国は、そのマジョリティは複雑な人権意識の構造にある。日本で生まれたこの運動は世界を周回し、日本人、あるいは日本人はその反応でしか物事の評論はできない。今後数年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。オルタナティブな革命というのは別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。GEIJUTZEは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。今後、世界中の紛争地区や被災地区で群発的にGEIJUTZEがわき起こる。世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで共有し、特異的形象を発明する。これGEIJUTZEのシンギュラリティである。GEIJUTZEは、スタティックな、モニュメンタルな造形を想像することではなく、トポロジー位相幾何学と化した構想的プロセスの軌跡のことである。



GEIJUTZEはこの文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力なのである。貧困や紛争は人類の歴史における重大事であり、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。しかし、事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的な「ノート」の中に現れる。つまり、人間にとっての普遍的な事柄は、それぞれの人生の個別性において顕れるということでありGEIJUTZEは人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことに存在意義がある。

GEIJUTZEの革命は別に国家や社会を破壊しようと言っているのはなく無効化であり、オルタナティブなパブリックをオーバーレイに創造すると言うことだ。

そして、その承認は日本人の有権者たちではない、もちろん国家でもない。国連の加盟国だ。そのアクティビティは、国家や政権とは一線を画しいかなる助成も必要とせず、このオーバーレイの運動は世界中の多くの人間の協力や寄付によりイニシアティバが展開されていく、しかしながら、権力とは決して対立も衝突も、ましてや政権を揺るがすようなカウンター関係ではなく、レイヤー位相が全く異なる。この国の30万箇所の基礎自治体により、ダブルフェイスが確立し、世界がそれをオルタナティブな国家として承認することのできる、時代が追いついた時、そのパラダイムを受け入れる覚悟は必要である。その帰結は自明である。すでに種が撒かれたのだから、花や果実が実るのを楽しみに待つしかない。それが100年後、1000年後、あるいは10年後だとしても。





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