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〈市長小学校〉難民といっしょに女性中心社会を作る



〈市長小学校〉の女性中心主義理念

チョーズン・ファミリー
女性中心によるメスがつなぐ単為生殖会


世界で展開されているのは、女性中心のジェンダー平等社会という「未来遠点」の射影幾何の通過点として「男女平等」があったり、なかったりする。


女性中心社会とは、
ジェンダー無中心社会のことである。

「共生」という言葉は耳障りが良く、生物学はもとより、福祉、環境、文化などの様々な分野におけるキーワードとして頻出する。人々は「共生」という言葉に心惹かれ、好意的な印象を抱いている。異なる主体がお互いを貪りあうのではなく、思いやりを持って共存するという、調和的、平和的、利他的な関係性のイメージが、理想的な雰囲気を醸し出しているからに違いない。

「共生」とは、統合されて1つの生命システムを構築することであり、平等や公平とは位相が異なる。そもそも、自然との「共生」という時には、本来は、自分たちも「自然の一部」と考えるべきであるが、この国では「自然」と「人間」それぞれが並び立っている。

一般的には、「共生」概念は、お互いが利益を得ているような関係をイメージしている。だが、その概念とはもっと広く、文字通り「共に生きている」関係をあらわす言葉であり、「共生」とは、統合されて1つの生命システムを構築することなのである。

男女の「共生」についても同様である。男は女の一部と考えるのが生物学にも社会学的にも合理的であり、自然の摂理なのである。

男に生まれるか女に生まれるかは、Y染色体を持っているかどうかで決まる。性染色体がXYなら男、XXなら女だ。だが、生命の基本仕様は女なのである。

ヒト生体では、受精後7週間までは、染色体に関係なく、女性の形で成長していく。そこから、男の場合は、Y染色体にプログラムされている通りに男性ホルモンが働き、体を男に変化させていくのである。つまり、男は、生まれながらに男ではなく、女の体をベースに改造させれて作られたものなのだ。


みんな「女」のなりそこない


性はグラデーション。明確なキャズムは、女性と女性以外の間しかない。つまり、男、LGBT、クエスチョニング、ノンバイナリーは、生物学的には女性のなり損ないと言うことになる。
よく知られているように、男に生まれるか女に生まれるかは、Y染色体を持っているかどうかで決まる。性染色体がXYなら男、XXなら女だ。しかし、実は、生命の基本仕様は女なのである。

例えば、ヒトでは、受精後7週間までは、染色体に関係なく、女性の形で成長していく。そこから、男の場合は、Y染色体にプログラムされている通りに男性ホルモンが働き、体を男に変化させていくのである。つまり、男は、生まれながらに男ではなく、女の体をベースに改造させれて作られたものなのだ。

妊娠5~6週ごろになると、胎児のおなかの中に性腺原器ができ、特別な力が働かないと、性腺原器は自動的に卵巣になる。つまり、Y染色体がない場合には、SRY遺伝子も存在しないため、性腺原器は卵巣になり、AMHも分泌されないので卵管・子宮・腟の成育が促進され、外性器の形も、男性ホルモンの作用がないので、自動的に女性型になる。

脳の発達も基本的には女性型である。脳の男性化には妊娠20週ごろまでに、胎児の脳に男性ホルモンが十分に働くことがとても重要だ。不十分な作用では、染色体・性腺・性器が男性でありながら、生まれてから男としての性行動よりも女としての性行動を取るようになる。

アリマキの世界は、基本的にはメスだけの世界である。しかし、冬が近づいてくると、アリマキにもオスが生まれてくる。問題は、このときのオスの作り方だ。元々オスがいないのでY染色体は存在しない。だからメスのXX型染色体の一つを除いてX型染色体(X0型染色体)にし、メスの「できそこない」としてオスを生み出すのである。

〈市長小学校〉女性中心社会

女性が安心して性交し、安心して妊娠し、安心して出産し、安心して子育てできる。そういうセックスセーフ社会機構を目指すことを民主主義というのではないのか。フィンランドは男女平等というより、ジェンダー無中心社会という概念に近い。男女平等や男女共同参画などということ自体、男性からの上から目線の発想に変わりがない。この問題の本質は、男女平等や男女同権、男女共同参画などという周回遅れの議論ではなく、世界はすでに女性中心に動き始めており、国際社会の潮流は、様々な場面において、「人権」や「差別」撤廃の運動を主導し、地域社会の復興に尽力してきた「女性」の参画が、世界の和平の構築と維持に欠かせないことを認識している。

女性を中心としたジェンダー社会という「概念」は、あくまで命や人権を中心とした社会である。「人権とはあらゆる形態の差別と暴力の撤廃のための、グローバルに闘う権利」であり、すべての人間が「差別」や「暴力」による、非人間的状態から人間の解放を目ざす思想が「人権」の概念であり、デフォルトなのである。

女性を中心としたジェンダー社会の礎にあるのは、女性崇拝、妊婦崇拝、子供崇拝、命崇拝、自然崇拝、先祖崇拝、精霊崇拝の超自然観であり、そして、女性崇拝とは、何も女性の我がままを通すことではない。命や人権に対して、その距離の近い女性、妊婦、子供を社会全体で支え合うという構造様式が含まれている。
女性中心によるメスがつなぐ単為生殖社会ーこれが人類社会や生態系社会におけるボトムオブピラミッドである。
この上に男女平等や同権、婚姻、選択的夫婦別姓などの社会制度などのアーキテクチャーがオーバーレイされることになる。


人類社会の未来遠点は、男女平等ではなく女性を中心した
合理的差別アファーマティブ社会

『女性が子どもを産むこと』が生命活動の大前提である。そういう意味では、人類社会の未来遠点は、男女平等ではなく女性を中心に構成されることになる。

だがそれは、ヘテロセクシュアル(異性愛)と位相が全く異なる。私たちの社会は、異性愛中心性的指向である「ヘテロセクシュアルとは、性自認(自身の認識している性)と身体的性(身体構造上の性)が一致した状態のシスジェンダーが「前提」「当たり前」になっているが、その当たり前や前提はただ多数派マジョリティであるということに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。

この先の人類社会の未来遠点は『女性が子どもを産む』ことを前提とした小集落のパブリックがネットワークでつながることでインテグリティな持続可能社会が成立することになる。これは決して難しい科学予想ではなく、そもそも動物(生物)の世界は、【メスを中心に(特に繁殖に関して)】構成されているのがデフォルトであり、一万年を超える未来永劫の生命活動の帰結である。つまり、この国の男女平等論は、ここ数百年あるいは千年程度の時間性における人類が辿る社会の「通過点」の話であり、それはトポロジー位相幾何学的に、目的や目標にすること自体、根本的にずれているとしか言いようがない。

生命運動がメスを中心に展開している以上、それを支える社会やパブリックは、女性が中心であることが最も合理的だと言える。これは正しいとかどうかではなく、「公理」なのである。「公理というのは単なる基本ルールであり、それが現実的かどうかは関係ない。「公理」がないのに、文脈的な「定理」や「定義」を導き出すことなど出来ない。 「公理」は現実的である必要はないが、その「完結性」と「無矛盾性」が必要である。

男女平等はその女性中心という「公理」の射影幾何における一瞬通過点でしかない。その質点には大きさがない。そもそも平等の定理や定義を一体どのように証明するのか。

性やジェンダーについての意識、あるいはクオリアがアプリオリに世代から世代を引き継いでいくのは、エピゲノムの次元の問題であり、少しばかりの大学知や形式知で得た豆知識など何の意味も持たない。自分が高齢者になる頃にはすっかり忘れてしまい、現在のオールド高齢者と同じようなことを言うようになる。

女性の人生は少女期、生殖期(性成熟期)、家住期、遊老期 (非生殖期)というメンストゥルエイションを中心とした更年四期スペクトラムとして構成される。

女性のメンストゥルエイションは、決して社会が蓋をすべき問題ではなく、社会全体が支えるものとして、論理の秩序を根本的に転換する必要がある。プレメンスシンドロームやメンストゥルエイションの更年期ごとに起こる女性生体バランスの偏重に対しての理解がなければ、妊娠期における限定的なサポートだけでは、女性の将来に渡るスペクトラムな社会的総合的不安を払拭することはできない。

女性のメンストゥルエイションは、決して社会が蓋をすべき問題ではなく、社会全体が支えるものとして、論理の秩序を根本的に転換する必要がある。縄文時代の一万年にも及ぶ悠久の歴史の背景にあるのは、「妊婦崇拝」と「女性中心社会」の思想である。新型コロナが人類に突きつける命題は、「生命」という概念の世代を超えたエピゲノムプログラミングの連続性である。女性のメンストゥルエイション月経に対する不安を取り除くのは社会の役割である。それが、例え、妊婦であれ、少女であれ、売春婦であれ、いつでも連絡ができて、どんな小さなことにでも安心して相談やサポートを受けれる、決して新型コロナ下での臨時的なものではなく恒久的な体制が必要である。

女性は子供を産む機械ではなく、命を世代に繋いでいくBaton human バトンヒューマンである。その新しい命を産むための女性の生体機構は、複雑でデリケートに出来ているのは事実であり、女性のメンストゥルエイションは、生命という存在そのものであると言っても決して過言ではない。女性の社会進出や、男女同権、男女平等などは、メンストゥルエイションにおける、その上部構造として考えなければならない命題なのである。女性の社会進出とメンストゥルエイションは決して並び立ててはならない。社会はメンストゥルエイションの一部と考えるのが、SDGsなどのインテグリティな生態系を考える場合、最も合理的であると言える。

セックスセーフ
難民といっしょに女性中心社会を作る

世界には未だに貧困のため子女を売り、その子女が孝行娘とされる現実が存在する。松本人志の「体を使って」発言に対して、フジテレビの対応は、「視聴者の皆様からはさまざまなご意見を頂戴しており、今後の番組作りの参考にさせていただきます。なお、これ以上の制作の詳細についてはお答えしておりません」と完全にダンマリを決めている。

この発言は、松本と女性タレントとの信頼関係がどうとかの問題ではなく、女性差別における、フェテシズム、「売春」という人身の売買に関わる女性の最大人権や尊厳に対する絶対差別発言である。
「松本さん、それはないですよ!」と言えなかった女性アナウンサー、言える空気のない番組現場、そしてフジテレビという組織に、この問題を語る資格など何もない。

この国が本気で女性差別に向き合う覚悟があるなら、松本人志の「体を使って」の絶対差別発言からやり直すべきである。この発言をスルーして女性差別の一体何を大はしゃぎしているのか全く意味がわからない。いかなる状況、文脈において、人身の売買、性の売買を意味する、「体を使って」という表現など決してあってはならない。日本人のアプリオリにある男尊女卑、フェテシズムのアプリオリは意識の底に深く潜行し、平静時においては現れることはないが、何かのきっかけでその均衡が崩れると一気に溢れ出る。

いかに女性や子どもたちを「性被害」から守っていくか。「セクハラ天国」「性犯罪天国」のこの国に本気でその覚悟があるのか?

私たちが目指す未来遠点は、ジェンダー平等社会の先にある女性中心社会である。当然アファーマティブアクションは、必要だが、この国の男性有権者に女性人権思想や理念を売り渡した女性政治家のクォータ制は目標に逆行する。

ジャニーズ事務所ぐるみの"性加害"は、一人の加害者の問題、ある芸能事務所の問題にとどまらず、いかに子どもたちを性被害から守っていくかという国民全体の問題になりつつある。松本人志の「体を使って」発言では、松本と指原の関係性を持ち出し、「松本さん、干されますように」のツイートに、さすが指原と美談にしていたのではないのか。まずはこの国の人間は本当に「廃娼」、「存娼」望んでいるのか、その本音を自分自身の胸に手を当てて一度聞いてみるべきである。

「虎に翼」ー「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるだろう。はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」

「三界」は過去・現在・未来、あるいは、仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと。女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がないという意味である。皮肉にも現在のこの国の「女は三界に家なし」は、基層にあるのは、「あまりにも男女が平等」であり、女性たちはこの「あまりにも男女が平等」の夢幻航路を彷徨っている。「虎に翼」のドラマのモデルである三淵嘉子は、何の努力もしないで、新しくすばらしい民法ができることは夢のようでしながら、「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるだろう。はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」と危惧した。ジャニーズ問題や松本人志問題において、その危惧は見事に的中した。「あまりにも男女が平等」に、人間の心がついていけない。そして、人心の分断を生み、皮肉にも男女平等が、現代の「身分制度」として、ジェンダー、そして障害者差別の温存させる根拠になってしまった。

「生理の貧困」

また、このドラマでの「月経」を真っ正面から描写した「勇敢」は評価したい。もちろん、スポンサー企業により番組が成立する民法とは違い、NHKならではの優位性ではあるが。

この国の「生理の貧困」とは、コロナ禍が長引き、経済的に困窮する女性が増えていることが背景がある。つまり、経済的な理由などで、生理用品を十分に入手できないことを指すが、重要なのは、「生理の回数」だ。現代女性の一生の生理回数は、およそ450回。それに対し、昔の女性の生理回数はおよそ50〜100回という研究報告がある。生理回数の増加に伴って、生理回数が多いこと自体が、子宮内膜症、子宮筋腫などの病状だけではなく、現代女性が抱えている月経困難症やPMSなどのリスクやセルフケアだけではコントロールできない生理痛が伴う。

つまり、「生理用品」だけの問題ではなく、女性のメンストゥルエイション(月経)に対する不安を取り除くのは社会の役割なのである。
女性の持つの不安は、決して妊娠、分娩、出産だけの問題ではない。女性は生まれた時から、社会から月経で排除され、妊娠で排除され、出産で排除され、育児で排除されている。

「月経」の理解は、人間理解、ジェンダー理解、女性理解の基層にある。そもそも、生涯500回を超える「月経」という苦難を抱える女性と男性が平等というのは概念行為として成り立たない。そしてあらゆるジェンダーがお互いの顔色を伺うのではなく、「月経」を見据えることにより、はじめて男女平等、ジェンダー平等の概念行為としての帰結が成立する。


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