松本人志もういらんの賛否
お笑い芸人たちは、勇気をもって、「松本人志式」からの脱却を宣言すべきである。笑いという芸術は新たなステージを目指すべきである。何よりも必要なのは、お笑い芸人の芸術家宣言である。その主題は3つある。ファンには手を出さない。政治には手を出さない。社会には手を出さない。そして社会は宣言したお笑い芸人に対して、ルッキズム差別や小暴力の「表現の自由」を認めるべき。全員が無理でも、プロダクションやマスコミ・メディア、もちろん芸人個人による宣言でもよい。松本人志問題の帰結は、決して司法や観客の手によるものではなく、お笑い芸人が、新しいお笑いのために勇敢になることである。自分たちの手で松本人志に「制裁」を与え、松本式を徹底的に排除しない限り、第2、第3のジャンポケ斉藤が現れることになる。最初の一歩を踏み出す勇敢な芸術家の登場に期待したい。
本来お笑い芸人という芸術家の使命とは、「面白い差別(暴力)」、「喜びの差別(暴力)」、「救いの差別(暴力)」を表現することが最大の使命であるはず。そういう意味では、松本人志のお笑いの淵源にあったのは、そうことだったのかもしれないが、完全に踏み外してしまった。権力や強者に尻尾をふり、笑いという芸術を利用し、見境なくファンやその周辺女性たちに対して猟奇的な性行為を繰り返してきた。一方で、政治や社会に口出しし、権力の茶坊主として本来のカウンターカルチャーとしての機能を完全に放棄してしまった。また、婚姻制度に則り、ごく普通に結婚し、ごく普通の家庭を形成して、蓄財とボディビルにしか興味を示さない。松本をお笑いの天才などと評するが、時代はすでに松本を追い抜いている。松本人志を崇拝しているのは、吉本芸人と全盛期の松本の笑いの亡霊を信奉し続ける地頭の悪い古典松ちゃんファンだけである。