だが、私たちは、「免疫」について、そういう理路を取らない。
「免疫学」は、極めて高度で複雑な系だが、「免疫」概念はいたってシンプルである。
私たちが提唱するのは、「免疫」についての概念であり、決して「免疫学」ではない。「免疫学」は極めて高度で複雑な系である。素人の聞きかじりの形式知は通用しない。過去の膨大な経験値や臨床に基づいた学問なのである。
ウイルスを知るには通常の免疫反応についての知識が必須であり、結果的に免疫学を網羅的、体系的に理解する必要がある。
何しろ免疫学のキャスト(細胞の種類)は非常に多く、きわめて複雑な系を構成しているので、私たち門外漢の知識では正しく理解することは不可能であることを認識すべきである。
私たちは、「免疫」のコントロールについて、そういう理路を取らない。
約100年の間,科学の世界ではウイルスの正体についての見解が何度も変わってきた。最初、ウイルスはまず「毒素」と考えられた。次に,ある種の「生物」と見られ,今日では「生物」と「無生物」の境界領域に存在するものと考えられている。ウイルスは単独では自己複製できないが,生きている細胞の中では複製でき,宿主となった生物の行動にも大きな影響をおよぼす。つまり、ウイルスは生きていると考えるのが合理的なのである。つまり、これはウイルスの意識と人間の意識との戦いなのである。
「ウイルスを支配する人間」は、人間の生命力という存在を心から信じている。
「ウイルスを支配する人間」は、因果律による硬直的な思考法によるアプローチは行わない。なぜなら、「ウイルスを支配される人間」は、面前の「データ」に反応するだけで、「虚構」をつくる力をもっていなかったため、未知のウイルスに対して、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることもできない。
「ウイルスに支配される人間」は過去のデータや処理結果をふまえて「論理空間」を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定する、つまり、「過去」によって完全に規定されている。
真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能だ 。だからこそ、真実をおびき出して「虚構」の場所に移動させ 、「虚構」のかたちに置き換えることによって 、真実の尻尾を捕まえようとする 。
いちど共通の「虚構」さえ獲得してしまえば、しめたもの、「ウイルスを支配する人間」は途方もない力を発揮する。誰もがその存在を信じている「虚構」は、共有信念が崩れないかぎり、社会のなかで力を振るいつづけるからだ。つまり、
人間はヒトの細胞と細菌から成る「超有機体」
ヒトの 体は約 60 兆個の細胞より成るが、一方、我々の腸管、口腔、体表などには 100〜1000兆個 もの共生微生物が生息し、我々に利益を与えてくれている。数の上では共生微生物の数がヒトの細胞数を圧倒してい る。人間をヒトと共生微生物から構成されている超生物と見なせば、この超生物、即ち、人間の体は 9 割が細菌ということになる。
こうした体内微生物が、免疫系など人体の仕組みと密接な相互作用をしていることを考えると、人間とは、ヒトの細胞と微生物とが高度に絡み合った集合的有機体とみるのが適切だ。人間の体内に存在する細胞のかなりの部分は、人間自身のものではない。それどころか、それは細菌(バクテリア)の細胞なのだ。人間は歩く「超有機体」であり、ヒトの細胞と菌類、細菌、ウイルスが高度に絡み合った存在とみるのが、最も適切なとらえ方と言える。
人体も常に細胞が入れ替わっている。成人の人体では、細胞の平均寿命は10年以下とされている。パラドキシカルに言えば、人間の身体の細胞が全て入れ替わっても、人間のアイデンティティは変わることはない。
古代の日本人は、人間も自然の一部である、あらゆるものに魂が宿っている というアニミズムの世界観の中で生きてきた。
自然との「共生」という時には、本来は、自分たちも「自然の一部」と考えるべきであるが、この国では「自然」と「人間」それぞれが並び立っている。
共生関係というのは状況によって「相利」的になったり「寄生」的になったりすることがあり、「共生」と「寄生」は決して対立概念ではなくて、前者が後者を含むものである。
一般的には、「共生」概念は、お互いが利益を得ているような関係をイメージしている。だが、その概念とはもっと広く、文字通り「共に生きている」関係をあらわす言葉であり、「共生」とは、統合されて1つの生命システムを構築することなのである。
ウイルスとの「共生」はウイルスと仲良くやっていこうということではない。「共生」とは、この「戦争」と向き合った後の結果であるべきである。「戦争」と向き合いもせずに「共生」ということは、概念行為として成り立たない。
そもそも、人間はヒトの細胞と細菌から成る「超有機体」であり、私たちが菌との「共生」という時には、本来は、自分たちも「菌の一部」と考えるべきであるが、この国では「菌」と「人間」それぞれが並び立っている。人間も菌の一部として、統合されて1つの生命システムを構築することの論理の秩序を転換する必要がある。
この未知ウイルスとの戦いとは、人体の細胞の新陳代謝のことである。ワクチンや医学的なアプローチはあくまで人間の免疫力だけで、ウイルスに打ち勝つことのできない場合の非常手段であると言える。人体は、1日で1兆個もの細胞を入れ替えている。不要になった細胞は死んで、その近辺の元気な細胞を細胞分裂させて2個にし、その一つを失った細胞に入れ替えて成長させる。人体の細胞の数は、約60兆個で、単純計算すれば、毎日1兆個の細胞が入れ替わり、1ヶ月で30兆個、2ヶ月で60兆個が新しい細胞になっていく。
コロナ危機における「専門家」は存在しない。全ての意見はプランAにすぎない。新型コロナウイルスについては、疫学、生物学的領域に留まらず、全体的社会的現象のフェーズに突入している。全体的社会的現象とは、社会集団の法的、倫理的、審美的、政治的、経済的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できない。数字を眺めて、聞きかじりの豆知識で予測や解析をしても意味がない。今、私たちに必要なのは、プランと実行による「統合知」だ。つまり、全ては「臨床」というコンセクエンスを示さない限り何の意味も持たないということである。
集団免疫とワクチンや治療薬の完成が感染拡大収まる時だとされるが、そのワクチンや治療薬に対しても過大な期待は禁物である。この危機はまだまだ続くと見るべき。
学者の「知識」が強いのは、論理空間の大きさが限定されているからだ。だが、リアルな現実社会では論理空間は無限大であり、何が行われるかわからない。学者はプログラムにもとづいて「知識」を表現する。それは、データを処理する以前に、前もってどのようなデータかを予測し、いかなる論理にしたがってデータを操作するかのアルゴリズムにより、結果を導き出すというプロセスによるわけだが、良き結果を生み出すのは、過去のプログラム作成時におこなった状況予測が当たった時だけである。
もちろん、そうしたアプローチを否定しているわけではない。
人間の「免疫」については、数式や公式で解析できるものは実に易し、ところがあるところまで行くと、理屈では解き明かせないものが必ず出てくる。つまり、生命には必ずそういうブラックボックスがある。つまり、生命には「不思議」が存在する。「不思議」は「不思議」であって、決して「謎」ではない。科学者が「不思議」を「謎」と誤解し、もっともらしい「解答」を導き出しても、こうした「謎解き」は、所詮こじつけの「レトリック」に過ぎないのである。