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ブロック暗号コードー 「ディープグリーン」



自閉的展開とは、人に対して、言葉や行動を控え、遠い先を見据え、深く考えを巡らすこと、「自己学習」と「自己表現」によるゲイジュツであり、社会的ジェスチャーである。

この国の荒削りな個人主義にもとに成り立った「外向型」は基本的にオープンであり、外の世界に接することにより、自分の活動エネルギーを生成する。だが、自己の存在が薄く、人や集団、環境から刺激を受けすぎて、自らを消耗してしまう。それに対し「自閉型」はクローズドである。自分の内側から活動エネルギーの生成を基本とする。

全米ミリオンセラーとなった『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』スーザン・ケイン (著)では、オバマ、ビル・ゲイツ、ガンジー、アインシュタイン…物静かで思索的な内向型の人たちが社会を築きあげてきたと述べている。

落着いていて、感情的ではなく、熟考を重ね、ここぞという時に主張することにより、大きな信頼を得るという点では、「自閉型」の人間方が、「外向型」人間よりも断然有利である。

自閉型展開では、コンセクエンスが作品である。本来、ゲイジュツは目を閉じて深く思考をめぐらせ、イメージし、静かに未来の計画について、クローズドシンキングを展開する。
だが、この国では眼光鋭くオープンに回りをキョロキョロ見渡しながら、大きな声でのおしゃべりを好む外向型人間が多いようだ。大きな変革においては、外向型人間の頭でっかちのレトリックや、大声でのプレゼンテーションや薄っぺらなネットワークでは何も動かすことは出来ない。

「自閉」は「舞踏」の概念に通じる。ニーチェが到達したのは「舞踏」という概念だった。とにかく、踊ること。意味を問わずに、心と体を動かすこと。その結果、何かが成し遂げられることに意義があるのではなく、踊ること自体に意味を見出す。踊ることが、生きることである。

社会的ジェスチャーである「自閉」には虚偽のやさしさや友情とは没交渉だ、一人ひとりが自分の足で立つことから「舞踏」は始まる。そして美しい蝶になって羽ばたくためには長いさなぎの期間を経ることも必要なのだ。困難の中にこそ希望があり、闇を経てこそ光の世界が待っている。世界が直面している経済の変動と政治的激動の渦の中で、実は僕たちの内部にこそ、その現実を凌駕する広大無辺な宇宙が広がっていることを「舞踏」は教えてくれている。

人間は孤独な存在だからこそ、寂しい。孤独だから、話し合える友だちがほしい。孤独だから、一緒に過ごす相手がほしい。

だが、そのためには、自分の関心のあることを書き、調べ、学んでいく。そして、同じ理念や志をもつ人と知り合い。問題を共有し、自分が独りでないことを知り、何かを成し遂げ、喜び合うことに。これらはみな、僕たちが理想のパブリックであることの素晴らしい理由だ。その範囲が広くても、狭くても。

孤独を恐れて、理念や志が共有できない人間とコネクトしても何の意味もない。この世は変化するものだと思っていれば、どんな事態に直面しても度胸が据わる。孤独の問題も最初から人間は孤独だと思っていれば、たとえひとりぼっちになったとしても、うろたえることはない。

僕たちの「頑固」、「孤高」、「在野」の自閉的アクティビティは、国や行政の助成とは距離を置き、「自己学習」と「自己表現」でゲイジュツを形象する。自閉的展開は原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。そして、ゲイジュツは法律よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」なのである。

ゲイジュツは、繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱く、ゲイジュツはその共同体における規範の暗黙知である。いわゆる社会的配慮の大部分はゲイジュツに属する。

オルタナティブなゲイジュツにおける最大の歴史的使命は、美的形式原理の再構築である。人間の動的なアクションのなかで考え、無色・無名・無能の人間のゲイジュツのシュパヌングは、世界中の様々な国や地域において群発的に「スタンド」をわき起こすことになる。

世界中に拡散される自閉的展開によるゲイジュツ運動は、やがて様々な場面で、思いがけない結合を生み出すことになる。それは壮大なドラマの結末でもあり、新たな展開の始まりでもある。その時、僕たちが互いのブロックチェーンを解き放つ暗号コード、それがディープグリーンである。


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