〈市長小学校〉九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025-2025
「九度山バウヒュッテ・シュンポシオン2025-2025」
〈縄文資本主義〉ーその主題は一万年先の人類の「未来」。HEcPオルタナティブなパブリックは、決して縄文時代を研究して生まれたものではなく、人権、環境、コミュニティ、公共のあり方をシンプルにその道理や合理性を追求していくと、縄文時代に行き着いたということなのです。縄文時代は、縄文のビーナスという土偶に象徴されるような、まさに女性が活躍していた時代でした。自然と同じように女性と子供、生命をコミュニティ全体で尊重し、大切にしていました。女性中心のチョーズン・ファミリーと平等主義な社会であったことが長期安定を支えてきたのです。そして、自給自足により、自然の恵みを取り過ぎないようバランスのとれた生活を心がけ、小さなコミュニティをつくって隣近所と助け合いながら次の世代、次の世代へとつないでいく。こうした世界に類を見ない「良い社会」が、実に一万年という長い間続いたのです。
❶〈女性中心社会〉チョーズン・ファミリー
女性中心によるメスがつなぐ単為生殖社会
縄文時代の一万年にも及ぶ悠久の歴史の背景にあるのは、「妊婦崇拝」と「女性中心社会」の思想であった。新型コロナが人類に突きつける命題は、「生命」という概念の世代を超えたエピゲノムプログラミングの連続性にあります。そもそも、農耕が始まる前、世界の多くの狩猟社会では平等主義を徹底するのが普通だった。自分の子供だけに目をかけるのではなく、集落の大人たち全てが、全ての子供を「自分の子」のように育てる。これは、複数の養い手がいることで、子供が大人になるまで生き残れる確率をあげるという利点があります。
縄文土偶の面白いのは、その用途や使われ方が明らかでない、なんのためのモノかわからないし、生活用品なのはわかるが、どうしてあんなにゴテゴテとした装飾がついているのかもわかりません。土偶には自然への敬いや畏れ、呪術的な要素が込められています。多くの土偶が乳房やくびれを有し、女性を象ったと見られるのはよく知られたところです。中には臀部や腹部が膨らみ、妊娠した女性に表れる正中線の表現さえある土偶もあります。はじめて縄文土器を突きつけられたら,その奇怪さにドキッとしてしまう。不可思議な美観。荒々しい不協和音がうなりをたてるような形態、紋様。そのすさまじさに圧倒されます。
❷〈芸術中心社会〉ニュー・キュレーショニズム
アニミズムー調和と祈りの象徴である「土偶」。岡本太郎は、縄文と弥生を対比させながら、流動性・アシンメトリー/静止的・シンメトリーという造形的美意識の違いを、狩猟・移動/稲作・定住という生活スタイルの違いに、結びつけています。しかし、アシンメトリーは世界的に観ても狩猟移動族の造形表現の特徴ではなく、縄文においては、そもそもアシンメトリーも、シンメトリーもありません、そもそもそんな概念は存在しなかったのです。美しいも不細工もなく全てをありのまま受け入れていた。つまり、縄文の時代においては、「美術」と言う概念がなく、工芸品とされる土器や土偶を作る工人も存在していなかった。全ての人間が工人であり工芸家であったと考えられます。
「全ての文様に意味があります。え?使い勝手?何を言ってるんですか?実用できない?え?何をずっと言ってるんですか?」
縄文においては、そもそもアシンメトリーも、シンメトリーもありません、そもそもそんな概念は存在しなかったのです。美しいも不細工もなく全てをありのまま受け入れていた。つまり、縄文の時代においては、「美術」と言う概念がなく、工芸品とされる土器や土偶を作る工人も存在していなかった。全ての人間が工人であり工芸家であったと考えられます。
古来、日本の先住民である縄文人は、生きとし生ける全てのもの、即ち、万物には精霊が宿るというアニミズム(土偶/縄文時代)を信仰していました。「土偶」の成り立ちには、最近では人間をモチーフにしているのではなく、植物がモチーフだとする説も登場していますが、基本的には女性を表しているとされてます。女性崇拝、妊婦崇拝、自然崇拝、先祖崇拝、精霊崇拝の超自然観が窺い知れます。妊娠した姿も多く、安産や豊穣を祈った精霊の姿だという説や、土偶は、意図的に壊されたものも多く見つかっていて、壊すことが、何かの祈りや儀式に関係していたとも言われるが多くの謎に包まれた存在です。
❸〈自給中心社会〉リジェネラティブ・アーバニズム
「たくさん捕れたら分配します。お世話になってますから」ー縄文時代のイデオロギーは、徹底した平等主義と再生への執着です。縄文時代の「集落間ネットワーク」や、環状集落のあり方には、権力の偏りを生まない巧みな工夫がなされ、墓やモノづくりのあり方には、命の再生が強く意識されています。対して弥生時代のイデオロギーは、富の拡大と実利主義。農耕によって生まれた富の不均衡はのちの古墳時代に繋がっていくトップダウンの管理体制を促し、効率性や実利性を求める社会を導いていきました。
縄文時代に生きるなら、絶対に入っていないと生き残れないのが、海上および陸上交通でつながった交易ネットワークです。このネットワークに組み込まれることで、地元ではとれない動植物や鉱物などを互いに融通し、どこに生きても不自由のない生活を実現していていました。そしてこの集落間の付き合いを強固にするため、縄文時代の各集落はとてもオープン。婚姻や祭でしょっちゅう行き来する。縄文ネットワークへの貢献は、縄文人にとっては死活問題だからです。
オルタナティブな資本主義とは、アダム・スミスの経済学ではなく、インドネシア諸島現存するプリミティブなクラ交易におけるソウラヴァとムワリの交換事業のような名誉ある「財」をイメージしています。クラ交易は経済的にほとんど無意味な交換だが、社会関係の観点からみると、きわめて重要な交換です。相互のパートナー間の財の交換をとおしてこそ、恒久的な関係が生まれる。交換を通じてこの関係のネットワークが確認されて永続的になるからです。