地獄から帰ってきたところ
先日足を運んだ、ルイーズ・ブルジョワ展。タイトルから好きだなぁ、と思って情報を見ていたら、なるほどあの六本木ヒルズの外にある蜘蛛のオブジェの人か!というとこで見に行ってきた。
そのなかで、いくつかのルイーズ・ブルジョワの言葉が散りばめられていたうちのひとつが、タイトルに添付した写真の言葉。なるほど、こういうときに、何かを作品として生み出せる側であったなら、自分の内包しているものにいつまでも傷口を撫で回されることも、もしかしたらないのかもしれない。作品としてアウトプットすることで、内包しているものを具現化できるから。
わたしは音楽にしろ、美術にしろ、生み出されたものを見て自分の内面についても考察したりして、さらに内包していくしかないのだ。どんどん蓄積されたそれが自分を押しつぶすことになったとしても。他に方法を知らないから、どうにもならない。
昔はライブで、日頃の憂さ晴らしをして明日からまた頑張ろうって気持ちになれたけれど。今はどんなにいいライブを見ても、ここに戻ってきてしまうし、得られた感情や思考はどんどん溜まってしまう。アーティストによっては、昔みたいに色々とフロアに置き去りにしてこれるかもしれないと思ったけれど、そうなれるアーティストは昔ほど多くないし、その日のライブによっては更にダウナーになって帰ることになることのほうが多い。
今では昔は、どうやって肩の荷をおろしていたのか見当もつかない。なんであんなにライブのMCで励まされて、よっしゃやったろ、という気持ちになれていたのか。今はどちらかというと、こういった人の内面に触れて色々考えるほうが合っているのかもしれない。
ルイーズ・ブルジョワは母親や父親との確執(という言い方が正しいのかはわからない)により、精神分析療法を受けた時期があったりしたらしい。何箇所か本人が話をしている動画を流していたが、たしかに私が仕事で出会ってきた人々と同じような不安定さを感じた。とはいえ、彼女には芸術を生み出すことができて、それを世間的にも評価された。もしかしたら、そこで彼女の内面を昇華した作品たちを通して彼女もどこか救われていたのかもしれない。そうであってほしいような気もする。
作品の中に多くあった妊娠、子を育てるということ、彼女にとっての5つの乳房などのモチーフを通して、わたしも母親として子どもを育てるということを改めて考えさせられる機会にもなった。ママンという蜘蛛は、ルイーズ・ブルジョワの母親の投影であり、蜘蛛は獲物を糸で絡め取ったり狩ったり子を守ったりする獰猛さと、巣を編むという繊細さ(これは母親がやっていた織物修理?の仕事も投影されているのかも)を併せ持つ。なんで蜘蛛がママン?という疑問は、ここで解消された。
先日見た、塩田千春の糸と、この蜘蛛というモチーフがリンクする感覚もあって、個人的には時間を空けずにこの2つをハシゴして良かったと思っている。塩田千春の糸は、人とのつながり、そして血管を表現しているとのことなので、違う系統のものであるとは思うのだけれど。
ルイーズ・ブルジョワ展、まだ始まったばかりなので、終わるまでにもう1回見に行きたいような気もする。でも心が多少元気なときがいいかもしれない。
この日記を夜中に目覚めたときに書いていたのだけれど、何か寝ぼけて、書いた記憶のない文が。無意識で書いた文なのだけれど面白いので残しておく。
「生きていく気持ちになるかもしれませんが…わたしにとっては、あなたのピアノが救いそのものなのです。これにもっとバリエーションがあったなら、こんな真夜中にくだけちる」
なんのことだろう。自分が書いたのによくわからない。でももしかしたら、何かここから後々得るものがあるかもしれない。