友人宅からの帰り道、午後の陽光、ばらの花
都内のはしっこからはしっこの方へ、友人宅へお邪魔してきた。初めて降り立つ駅。ちょっと迷って友人をヒヤヒヤさせてしまった、でもなんとか合流して。ご飯が食べられない話は、先にカミングアウトしておいたので、成城石井でサラダとかを買ってもらってしまった(来てくれたから、と出してくれた)。この日はあんまり、というより久々に会う人とだと、許可食に分類されるものでも食べ進まないっぽい。一緒に選んだチョレギサラダと、ピクルス、生春巻きを頂いた。
そして私は、持ってきたお土産の子供にあげるキラキラの仕掛け絵本とか、千葉のお土産のひとつピーナッツ最中(これはうちの夫の好物でもある)を渡した。仕掛け絵本は、絵本そのものよりも包装がお気に召したようで笑った。
その友人は春待ちの人と同じきっかけで出会って、20年以上経った今も仲良くしてくれる貴重な存在。別に頻繁に連絡を取るわけではないのだけれど、会えば昨日会ったみたいに話をする。
子育てのあれこれを、特に彼女は今ミルクや離乳食の量が心配みたいで、わたしの子たちのときはこんなだったよ〜、だから大丈夫よ、みたいな話をするとホッとしていたような気がする。彼女の子は、ニコニコしていて、おかあさんが遠くに行く気配を察すると泣き出す、可愛い子だった。
わたしもそうだったけれど、小さい子(特に赤ちゃん)と2人きりで家にいると、世界から取り残された惑星にいるようで、言語の通じないけれど可愛くて仕方のない生き物の、予測不能の行動に癒されたりヒヤッとさせられたりして、そのある種の閉塞感のようなものが毎日少しずつ降り積もっていく。そうなると、なんだか息をするのも苦しくなる日があったりするのだ。どんなに子どもが健康で、ある程度順調に育っていて、パートナーの理解や協力があったとしても。そして彼女も、同じようなことを感じている、今日来てくれてありがとうと微笑んだ。
行きに寄った成城石井で陳列されていた、ざくろをひとつ買って、15時くらいに電車に乗り込んだ。帰りの電車の中で、冬の日の晴れた陽の光に照らされながら、イヤホンからレイ・ハラカミRemix「ばらの花」が流れる。洗濯物が揺れるベランダから昼下がりのおひさまが柔らかく照らす部屋で、子どもを抱っこして、子どもがボーロや何やらを落としても穏やかに声をかけ、汚れた服や身体を洗っておむつを替える友人が、とても尊い生き物で、わたしが遊びに来ることで本当に息抜きになるなら役に立てたらなと思った。思い切り泣いたり、笑ったりしようぜ、と歌詞を反芻しながら。
とりあえず、友人が子どもの服や汚れた顔を洗いにお風呂へ行った合間に、落ちたボーロを拾って汚れたハイチェアや床を拭いてみたりした。来客が帰ったあと、それをやるのって私はちょっと疲れてしまうから。私が帰ったあと、少しでも彼女がほっとできる時間がもてていたらいいのだけれど。
そういえば、冬のバラが、近くの車道の合間や道の駅の花壇に揺れているのを見かけていたなぁ、と思い出した。見つけたときは「あ、バラが咲いてるんだ」って思うのに、すぐに記憶の片隅に流されていってしまう。でも今日はiPodTouchのシャッフルのおかげで思い出すことができた。
わたしもそんな、いつか記憶の片隅に流されていくように些末で、でもいつまでもじんわり思い出されるような、ばらの花みたいに生きておきたいな。時々トゲで、傷つけてしまうかもしれないから、できるだけトゲの削がれた優しさになるようにして。