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「ライラック」を自分なりに考えてみた
初めての「歌詞に対する疑問と自分なりの解釈」。
私が自分で歌詞の解釈をするのはとても苦手なこと。
誇大な「自分の妄想」が含まれていることを了承いただきたい。
忘却バッテリーの主題歌になったことも踏まえて気になっていたので、備忘録として残しておきたい。
※キャラ解釈などは含んでおりません※
Mrs. GREEN APPLEの「ライラック」
ジャケット写真は左足のローファーの中にライラックが詰め込まれている。背景はライラックの色。
曲の印象
エフェクトのかかったリフからは、街の空を太陽が少しずつ染めて行くような、そんな清々しさを感じた。
一回だけ、何の感情も込めて聴くと、すごく根っこから明るい印象を受けた。
しかし、歌詞を読みながら、ノートに書きながら聞いてみると、一瞬だけ重くのしかかるような影が落ちた気がした。
最終的にはコーラスで盛り上がり、その影は消えていった。
1番
思い出の宝物のこと
埃を被っているのに
誇りが光って見えるように
韻を踏んでくれる気持ちよさ。古いものは棚の奥にしまって、新しいものを手前に持ってきている今に、満足はある程度あるのかな。
自分の今の居場所について
不安 喝采 連帯
濁ったりの安全地帯
グワングワンになる
朝方の倦怠感
三番ホーム 準急列車
思い出には肯定気味だけれども、現状「グワングワンになる」と表現している。どこにもいけない、立っていられない、支えがない?もしかして崩れかけてしまいそうなほどの苦痛があるのかもしれない。
私がその言葉に引っ張られすぎて大切なものを見落としている可能性もある。
ただ単に、対象のない「不安」に眠れなかっただけかもしれないし。
なぜ、君を待つの?
君を待つよ ここでね
痛み出す人生単位の傷も
愛おしく思いたい
サビ部分なのに、変な切り方をしてすみません。
でも気になってしまったのがここの部分。
誰が、誰を待っているんだ?
「君を待つよ」の言い換えとして「(僕は)ここにいる」というメッセージを受け取った。
痛み出す人生単位の傷、ダメージを負っているけれども
それでも「愛おしく思いたい」という言葉からは
傷だからといって(負傷や不調を)遠ざけるのではなく、その傷も含めて「自分自身」として生きていく意思を感じた。
自分とは?という問いに対しての期待
探す宛も無いのに
忘れてしまう僕らは
何を経て 何を得て
大人になってゆくんだろう
韻を踏むことは、音楽の中ではよくあることで、リズムもあって気持ちがいい。
意味を持った踏み方で、印象を強めている。
「大人になってゆくんだろう」という「期待」と、
「大人になってゆくんだろう?」という「疑問」が
そこにはあるのかなと思ったりもする。
リフがイントロよりも賑やかになり、場面の転換を感じさせる。
2番
積極性?それとも緊張気味?
一回だけのチャンスを
見送ってしまうことが無いように
いつでも踵を浮かしていたい
・チャンスが来るのかがわからない場合→チャンスに気づくのが難しいのか
・チャンスに気づいている場合→思うように体が動かないのは嫌なのか
どっちとも捉えられるので、そこが難しいから
「だけども難しいように」と続くのか。
自分に対する評価が違っていたと気づいてしまった
主人公の候補くらいに自分を思っていたのに
名前もない役のような
スピンオフも作れないよな
全能感なんてものはきっと誰にでも存在する。
でもそれはどうやら違うものだと気づいてしまった。そういう自分に出会ってしまったという意味なのかな。
自分はただの通行人なんだと知る。
正直に生きていたい
くだらない愛を歌う際
嘘つきにはなりたくない
安直な考えだが、「嘘つきにはなりたくない」から、朝方の疎ましさから逃れて、「急行電車」に乗り込むのだろうか。
不安が出てきた、言葉にするとこんな感じか
影が痛い(光が痛い)
価値なんか無い(希望なんか嫌い)
僕だけが独りのような(僕だけ置いてけぼりのような)
夜が嫌い
君が嫌い(一人が怖い)
優しくなれない僕です(わがままが拗れた美徳)
もうすでに何番煎じなのだろうと思われるが、ここが対句になっている。書き殴った病みポストのような気持ちをより丁寧に言葉にして向き合ったのが( )の中の言葉なのだろうと思った。
それが、「不安だらけの日々でも 愛してみる」に繋がっていくのだとしたら、転んだとしても、何度でも立ち上がって走っていくような光景が目にうかぶ。
「どれもこれもが僕をつき動かしてる」と、「愛おしく思いたい」は「(自分の身に降りかかっている)すべてを含めた自分自身」として生きていく意思という点で共通しているし一貫していると思う。
漠然とした疑問の中を生きる
今日を生きる為に探す宛も無いのに
失くしてしまう僕らは
何のために 誰のために
傷を増やしてゆくんだろう
何のために、誰のためにとはいつの時代でも、どんな年代でも感じていることではないだろうか。
「傷を増やしてゆくんだろう」という現実に対する諦観と
「傷を増やしてゆくんだろう?」という漠然とした疑問のはざまで
彼らは揺られながら生きているのだろう。
そこに意味づけをするならば
雨が降るその後に
緑が育つように
意味のないことは無いと
信じて進もうか
答えがないことばかり
だから愛そうとも
答えがないことだと、気づいている。わかっている。だから、信じることにした。愛そうともしている。それが彼の(あるいは彼らの)決断なのだと思う。
終盤のコーラス
それでも自分を肯定する
あの頃の青を覚えていようぜ
苦味が重なっても 光ってる
割に合わない疵も
認めてあげようぜ
僕は僕自身を
愛してる
愛せてる
ここの部分は、病みポストのような気持ちに対するアンサーなのではないかと解釈する(これも何番煎じか)。
最後の部分の「愛せてる」だけコーラスではない部分も気になっている。
これが結論なのだろうか。
それとも、まだ「愛せてる?」という疑問なのだろうか。
私が感じた「ライラック」
思春期を「思春期」という簡単なタグで括らなかった歌詞だと思った。
大人になって、傷を認めて、それも自分の一部だと認めて前に進もうという意思を感じる。
それは、誓いであるかもしれないし、あるいは疑問の中で出した一つの答えかもしれない。
正解も不正解もないことに気づいている彼(彼ら)は少なくとも自分をきらいになってはいないと思う。
ライラックの色はちょうど紫色が近いと思われる。
青春の青、葛藤の赤、それらがまぜこぜになったら、きっと「ライラック」のような紫になるのではないだろうか。
彼らはまだ、青春の真ん中で生きている。
曖昧な感情を胸に
列車に揺られて目的地に向かうのだろう。