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ライフステージ卒業の時は、「悲しみ」がともなうもの。

親が、「自分を産んだころの年齢」に自分が近づくにつれて、

「なぜ、将来のことを何も考えずに生んだんだろう?」

と思うようになりました。

つまり、20代から30へとかけて。


「自分はもっと賢いのに… なんでこんな劣悪な環境で育てた(人生プランを生きた)んだろう」


育ててもらっておいて、傲慢に聞こえるかもしれません。

たしかに、「感謝できる部分」はたくさんある。けれども、明らかな「不十分さ」もあった、と分かります。


「自分が親の年齢の時、その判断はしないな」

と。

(もちろん、時代は現代の方が圧倒的に(情報などの面で)豊かですから、平等な、親との比較ができているかは判断が難しいですが…)


ですがこれ、

「違うな」

と、昨夜ふと思いました。


親がとってもレベル低く思えるまで、育ててもらった — 生きてきた・自分は成長した — んだな」

と気づいた。


「ありがとう」
 
 



⒈「師匠」は超えてこそ


「師匠」という存在は、ずっと指をくわえて眺めている対象ではなく、学び、そして「超えていく(卒業していく)べき対象・存在」だと思います。

「親」という存在が、一種の “ 師匠 ” であるなら、けなせるほどにもし、こちらが成長したのだとしたら、それは、とってもありがたいことなんだなと。

反対にもし、親が立派すぎて、ずっと学べる対象だったら、僕たちはずっと「子供」の時のまま、「親はすごいなぁ。なんでも知っているし、なんでも1人でできる!」と思ったままのフォロワーです。

『自分の持ち味』を未だに発見できていないはずです。
 

⒉ 卒業のお知らせは「悲しみ」


これ、他の人間関係や、居場所も、同じだと思いませんか?

自分が変化して高まって、「卒業」の時がやってくる。

卒業って、いい気分だけとは限らない。

悲しみが押し寄せてくることもある。慣れ親しんだところから離れる、寂しさも。

そういう心の痛みを感じながら、『修了証書』をもらう。

ステージを降りていく。

もしずっと、人間関係が良好なまんま、置かれた環境がずっと、いい感じ。であれば、「なんとかしなきゃ」「ここにいたくない」って、感じることもできないんです。

ずっと、同じ場所にとどまってしまう。

「ありえない」

「なんで?」

「苦しい」

と思えるから、終えることができる。

空っぽに向かえる。

新しさを招き、始めることができる。

「ありえない」

と思えるほどに、高まってくれた自分に、ありがとう。

そこまで育ててくれて、ありがとう。
 

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