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スタインウェイと兄弟のピアノメーカー(2)(友情編)
前回はグロトリアン・シュタインヴェーグ(以下、グロトリアン)の社名の謎について提起しました。
今回は、いよいよその謎について解き明かしていきたいと思います。
創業者のフリードリッヒ・グロトリアンはロシアでのピアノビジネスが軌道に乗り、その成功をもって祖国ドイツに戻りピアノづくりを始めようと考えましたが、誰と組むかが一番の問題でした。
その頃、ドイツのピアノ製造の世界で名の知られた存在だったのが、今回のキーパーソンとなる『セオドア・スタインウェイ』という人物です。
※ドイツ語表記ではC・F・テオドール・シュタインヴェーグ。画像はセオドア本人。
セオドア・スタインウェイ。彼はスタインウェイピアノの創業者であるヘンリー・スタインウェイの長男として誕生し、ピアノ製造の基礎を学びながら高等学校へ進学して近代科学の知識を身に着けました。
特に、当時のドイツを代表する高名な物理学者、ヘルムホルツ博士との出会いは彼のピアノ製作に大きな影響を与えました。
それまで職人の技能や経験に頼ることが多かったピアノ製作の世界に近代科学(物理学や音響学)の考え方を応用することで、それが現代ピアノの基礎となるきっかけとなり、スタインウェイはそうした創意工夫をどこよりも率先しておこなったピアノメーカーでした。
(彼らについてはまた別の機会に詳しくお話します)
すでにドイツ国内で400台近くピアノを製造していたスタインウェイでしたが、ビジネスをさらに発展させるためにはドイツでの活動に限界を感じていました。
その理由は当時のドイツ国内を巡る様々な要因、高額で複雑な関税・昔ながらの古い組合体質・相次ぐ戦争と革命(政情不安)など・・・。
1850年、創業者のヘンリー・スタインウェイはついに一家総出でドイツからアメリカ合衆国に移住を決断しましたが、長男のセオドアだけは頑なに首を縦に振らず、やむを得ず彼だけはドイツ国内に残り、父親が興したピアノ工場を継ぎました。
そして1856年、一人残ったセオドアが自分のピアノ会社の共同経営に迎えた人物、それがフリードリッヒ・グロトリアンでした。
ここに、グロトリアン・シュタインヴェーグ(スタインウェイ)が誕生します。
異国でビジネスを成功させた有能なビジネスマンと、革新的なピアノ技術を次々と生み出した天才的なピアノ製作者、2人の希代の人物が共同で始めたピアノメーカーは順風満帆の船出でしたが、やがて大きな転換点を迎えます。
その物語は次回のnoteで!
本日もご一読いただき、ありがとうございました。
ピアノ・ラボ