歯車
今、音楽の世界は新たな黎明期にある。
Apple music、Spotify、AWA…音楽を聴こうと思えばいつでも聴けるし共有できる。かのミスチルだって、全曲公開をしているのだから、この歯車を止められる人はいないだろう。
いつでも気軽に音楽を手にできることは、いいこと。触れたことのないジャンルの音楽を聴くことも出来るし、知らないアーティストの曲も気軽に教えあえたりする。間口が広がったことで享受できる利点はいくつもある。
でも、本当にそれだけのことなのだろうか?
今や薄い板ひとつで世界を手中に収めたような感覚を得ることができる。調べようと思えば何でも調べることができるし、欲しいものがあればどこで売ってるのかなんて秒でわかる時代だ。
しかし、それは音楽にとって両刃の剣。なんでも調べられるといっても、結局調べようとしたことしか調べることは出来ず、世界を手に入れているようで、世界を消費し限定的にしてしまっている気さえする。
チャンスがあるようで得難く、つかめそうでつかめない現状に、辟易してしまう人が出て来ても仕方ないのかもしれない。もちろん、他に事情があったのかもしれないし、それを咎めることなど誰にもできない。
私は観る側なので、なにをわかったようなくちを。と思われても仕方ない。でも最近よく思うのだ。
歯車になりたくない、オリジナルでいたい、自分を確立したい。自分の、自分だけの世界を世界に広めたい。
そう思うことは、心ある人間なら一度でもあるはずだ。自己表現の世界に生きる人ならば、当然の心理だと。でも、私は思う。
歯車にすらなれないのにそこからはみ出すことなんてできるのか?
ということ。
今の音楽業界から目を背け、こんな時代だからCDが売れないのは仕方がない。いつか自分たちが活躍できる仕組みを誰かが作ってくれる。自分は歯車なんかになりたくない。
歯車になるということはたしかに自由はないかもしれない。息苦しいかもしれない。でも、歯車ひとつで成立するシステムなんてこの世には存在しなくて、それぞれがそれぞれの形で、自分の役割を果たすからシステムとして成り立つ。
歯車にかみ合う歯車が存在するからこそ、自分は自分の役割を果たせるのだと思う。歯車ひとつでできることなんてたかがしれている。でも、歯車となることで周りの仕組みを知り、理解し、ありがたみを感じることで、自分は自分の形を理解できる。
自分の形を知ればどのように動けばいいかわかる。自分には何が足らないか識ることができる。
じゃあ、次どうすればいいのか?ということも自ずと見えてくると思う。
私が好きなアーティストさん達は、皆やれることは全部やり、とれるものは自分で取りに行く人たちばかり。心から尊敬している。そういった行動に出れるのも、周りへの感謝を忘れず、己の形を知り、歯車として、自分の役割を果たし機能してきたからではないだろうか。
人への感謝を忘れず、自分の役割を責任を持って果たす人は、自然と周りを動かすことができる。この人のためならば、と。
どうか、私の尊敬するアーティストたちが、自分の形を知り、感謝を忘れずいることで、その世界を広め、いつか世界を動かす日が来ることを、切に願っている。