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アタリマエしんどローム。
そのひとだからこそ生きる言葉がある。
ほかの誰でもない、その人の言うことだからこそ人は耳を貸す。
誰しも、このような経験をしたことがあるのではないだろうか。同じことをしているはずなのに、なぜか評価されるのは自分ではないほかの誰か。
性能が違うからだろうか?見た目がいいからだろうか。
スーパーカーに乗っていればそれはゴールに到達するのは容易いだろう。
タイミングが悪かった、運がなかった、自分には才能がない…
私は回転するのは頭脳だが、息を吹き込むのは心、意志。
頭脳は車輪、心はハンドルでありガソリンではないだろうか、と考える。
ではエンジンは何に該当するか?と考えるとそれは車の性能、即ち個人の能力。スピードを出す、車に動力を持たせる重要な役割を果たしているが、どの方向に進むか、そもそも前進するかを決定づけるのは前に進む、右に曲がる!という明確な意志がなければゴールには辿り着かない。
ただただ真っ直ぐ進んでいればゴールに着く、とはいかないのが人生のしんどいところだ。
何故、評価されない?何で私だけ。
その時は判らないかもしれない。本当は単純なもののはずなのに。
答えは簡単、それはあなたが「評価」されようとしているから。
自分はもっと評価されるべき、あの人よりこんなに頑張っているのに。
「評価」というゴールを求めてしまうからこそ、今の自分との軋轢によりどちらに進んだらよいのか判らなくなる。その仕事を成すことで誰が幸せになるのか、どう幸せになるのか。何故、自分はその人たちを幸せにしたいのか。
届けたい相手。笑顔にしたい誰か。
それが明確であれば、採るべき道は自ずと見えてくるもの。
ゴールがあるからゴールするのではない、前に進むからこそゴールにたどり着くのではないだろうか。
即ちどんなに優れた能力を持っていようと、正しい方向へ進める精神が伴っていなければ悲惨な事故に繋がるだけである。
どんなに頭が良くても、どんなに身体能力が高くてもそれが利己的な理由にしか使われないのであれば他人はその能力を認めることはない。
他人がその能力を認めるのは良くも悪くも結果を出したとき。だがそこに「価値」を見出すのはその人がどのような心持ちで、どのような姿勢で、どのような方向に進もうとしたか。それがとても重要なのではないだろうか。
エベレストに登頂する登山家はこれまでにもたくさんいた、だが、何歳になってもどんな苦境にあっても登り切るんだと強い意志を持って一歩を踏み出すから人々は賞賛するのではないだろうか。人々に希望を与えたいという強い気持ち。それがなければ誰が好き好んで辛い山道を登ろうか。
そのひとが残した功績、成果、それは能力や才能がなし得たものとも言えるが、そもそもその人が自分の能力を正しい方向へ正しい方法で用いなければたどり着けない代物であり、能力や才能は地中から芽を出そう、地上にはどんな試練が待っているかもわからない、でも成し遂げたいことがある、前へ進もう!と芽を出した結果開花したものなのだから。
簡単なこと。思っているよりごくごく単純だ。
種を蒔かずして芽は出ない。種を蒔くから芽が出る。
水をやらずして芽は育たない。水をやるから芽が育つ。
前に出よう、矢面に立とう、自分が先陣を切る。自分が決めた道だから。
…この人について行こうと思う。そう思わせるのは能力があるからなのだろうか。才能があるからなのだろうか。
心。心に届くものはやはり心なのではないだろうか。
真心を込めたもの、或いは言葉だから相手の心に降り注ぎ、満たすことができる。
心のインターフェースは心だけなのだと私は思う。
当たり前のことを当たり前にこなせる人こそ最強だ。それは最も強いからではない。どこまでも強くなろうとするから強いのだ。